Thursday, June 25, 2009

しのやみ よわのつき07

マナと初めて会ったのは、物心ついてすぐだった気がする。
3歳になった頃だったのだろうか。当時のことは霧がかかったように曖昧で、唯一覚えているのはマナを見て何とも言えない気持ちに襲われたことだ。
そう。
あれは襲われたというのが正しいほど、突然で強烈な気持ちだった。
『こんにちは』
初めて交わした言葉はそれだけだったのに、どうしようもなく泣きたくなって、見ず知らずのはずのマナの胸に抱きついて泣いた。
当時17歳ほどだったマナは、俺が知ってる高校生の先輩くらいだったはずなのにその人たちに比べるとすごく大人だった気がする。逆に最近の方が子供らしく感じられるくらい、当時の自分には彼女は大人に、それこそ見たこともない母のように思えた。
幼い時の思い出だからすべてを覚えているわけではない。その後マナとどうなったのかも覚えていない。
ただ出会いの一場面だけが鮮烈に焼きついて残っているのだ。
あれから10年近く経った今、こうしてマナが一緒に居てくれるのはきっとレイの境遇に同情してくれているからなのだと思う。そして一度引き取ってしまったことからの責任感。
マナはレイのためなら何でもしてくれる。
一度レイに父親が居ないことに悩みに悩んで、結婚することまで考えたくらいだ。
そのときはレイが父親なんて要らないと言ったら踏みとどまってくれた。相手のことを嫌っていたわけじゃなく、むしろレイもマナも仲の良かった人だった。マナもレイが懐いているから良いと思ったのだろう。彼はマナに惚れていて、プロポーズされたときにマナも迷ったと言っていた。

マナはいつももう恋はしないと言っている。
とても大切な思い出があるから、それを消したくないのだと。
マナは多くを語らないけれど、ときたまぽつりぽつり話してくれることから伺えるのは、その思い出がとても綺麗で繊細ということ。
そして、相手のことを今も想い続けていること。
「レイちゃんもそろそろお年頃ね。素敵な人に出会えると良いわね」
そう彼女が言うたびにレイは心の中で思う。
素敵な人にはもう出会っているんだよ、と。
そう告げられたらどんなに良いだろうか。


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服の中で携帯電話が震えるのを感じて、マナはポケットに入れてあった真新しいシルバーの機種を取り出した。
4人で背中合わせにシェアするブースが連なる構造になっているオフィスは上司の目をそこまで気にする必要がないので彼女は気に入っていた。仕事さえやっていれば同じブースの人たちと無駄話をしていようが歌を歌っていようが何も言われない。
新着メールの表示に開くボタンを押すと、思わぬ人物からで眉間に皺が寄った。
彼から連絡が来るのはすでに習慣化しているせいか、たいていいつも週の同じ日の同じ時間にくるのだ。
だからこんな風にイレギュラーにメールを送られると何か悪いことでも起きたのか勘ぐってしまう。
しかし心配は杞憂だったのか、ただ単に今週は仕事が入ったので会えなくなったということだった。
了解、と簡潔に返事を返し、携帯電話をしまうとふっとため息をついた。
会いたくない。会いたくないと思っている筈なのに、会えなくなると寂しく思ってしまう。自分にあんなに辛く当たる人なのに。
昨日出来心でDVDなんて借りてしまった罰なのだろうか。
会えないだけでこんなに悩まされるなんて。
―--これではまるで恋をしているようだ。
そこまで思い至ったところで、思い浮かんでしまった考えを消すようにぶんぶんと首を振った。
それは断じてあり得ないのだ。

それに、彼は私のことを未だ許せていないのだから。

Wednesday, June 17, 2009

愛とはかくも難しきことかな37

宮内が貸してくれることになった一夜のお宿はなんと彼の実家だった。
元々徒歩10分くらいのところにアパートを借りて暮らしている彼はよく実家に顔を出すらしく、その夜も電話で一つ断りを入れる だけですんなりと寝床を用意してもらえた。
「これ、うちの生徒。こっちが俺の両親と姉」
軽く紹介されとりあえず失礼にならないように、よろしくお願いしますと頭を下げるとにこやかに中に迎え入れられた。とりあえず訳ありだとは説明してあったらしく、深夜に泊まらせてもらうことになった理由は特に尋ねられなかったが興味津々の面持ちではあった。
御堂の家に比べたら小さいが、それなりに大きな一軒屋の一室(元は宮内の自室だったらしい)のベッドを整えてもらって、お風呂とお姉さんの着替えまで貸してもらった後、部屋に戻ると宮内に個人面談を思い起こさせるような格好で向かいあってこれからの相談をした。
「とりあえず思ったんだがな、お前に好きな相手が居るというのをその保護者の父親に伝えるのはどうだろう」
「え、そんなの絶対聞いてもらえないよ!」
「まぁ、待て。やってみなきゃ分からないだろ」
即座に言い切った自分に宮内が宥めるように言う。
「とりあえず兄弟じゃなく、養父と話をしてみろ。そんでなるべくしおらしく見せながら、婚約の話を立ち聞きしてパニックになって家を飛び出してしまった。好きな人がいるので他の人と婚約はできない。そんな風に言うんだ。こうすれば強制は多分されないし家を飛び出た理由もつく。…昨今の常識では」
「もしも常識の通じない相手だったら」
「そんときは…家出を推奨してやる」
「わーん、宮内のばかー、解決になってないじゃないかー」
手近にあった枕を投げると彼は甘んじて顔で受け止めてくれた。
その後倍返しされたけれど。

二日続けて他人様のお世話になった次の日の朝は、よく眠れなかったせいであまりすっきりとはしていなかった。
リビングのカウチで一緒にお泊りすることになった宮内もよく眠れなかったのか、眠たそうな顔でおきだしてきた後、服を着替えるために一度アパートに戻っていった。
自分はお姉さんのお古だという可愛い洋服を貸してもらって、仕事に向かう彼女を見送った後、すでに退職してのんびりしている宮内の両親と朝ごはんを食べた。
学校の行くつもりはあまり無く、用意を終えた宮内が戻ってきたらどうしようと思考をめぐらしていたとき玄関が開いて宮内の呼ぶ声がした。
「どうしたの…って、え!」
呼ばれたままそちらに行くと思いもしなかった姿に、廊下で足を止めた。
「萌ちゃん、おはよう」
その人は昨日と同じ服装のまま、少し疲れた笑顔でそう言った。
「か、克己さん、なんでここに」
「この人、俺の家の前で一晩中待ってたみたいだぞ」
克己さんの格好を見てしまえばその言葉は疑いようがなかった。
「どうしているんですか、今日、お仕事なんじゃ」
「うん、そうなんだけどね。昨日泣かせてしまったから…」
「あ、あれは……」
そういえば昨日口論になって子供みたいに泣いてしまったのだった。しかも今思えばファミリーレストランの中で声をあげて。あ、穴があれば入りたいくらい恥ずかしい。
一人思い返して赤面していると、克己さんが玄関先から手を差し出した。
「ごめんね。泣かせるつもりはなかったんだ。ただ心配で君に家に戻ってほしかっただけで」
「も、もうその話は良いですから」
「良くないよ。君に誤解されたまま嫌われるのは僕が嫌だからね」
真摯な顔で彼に見つめられて、うろたえてしまった。あんなにも堅く御堂の家を出ることを決めたのにまた意志がぐらつく。
いつもそうだ。克己さんは本当に口が達者で演技が上手くて。
言い訳のようにそう心の中で愚痴るが、怒りが沸いてこなくて困る。かわりにあるのは期待だ。これはよろしくない。だってまた裏切られて同じ結果になるのが怖い。私は何度御堂家から家出すれば良いんだろう。