Tuesday, July 21, 2009

貴方と私の境界線04

最初はそんな感じで始まった。
河野様は相変わらず2週間に一度くらいの頻度ではなむらを利用して下さったけれど、以前と違って私の仕事帰りの道でも何度かお会いした。
最初の日に携帯電話の番号を交換したとき以来、夜道は危ないからと可能な日は送って下さるのだ。
料亭の周りは店の人の目もあるので河野様の家の近くのコンビニから、二人で歩きながらぽつぽつと他愛のない話しをして夜道を歩く。その時間はとても幸せだった。
こんな風に異性の人と並んで歩くのは中学校のときのほろ苦い記憶以来だったから。


カラリと軽い音を立てて格子戸が開けられて吉田様が出てこられた。
「ごめんね、お待たせして」
「いいえ、ではお部屋にまたご案内致します」
少し入り組んだ造りとはいえ、そこまでお座敷への道はややこしくないと思うけどな。そう思いながら吉田様を先導する。
「まつりちゃん」
行きと違って帰道は世間話もせず静かな吉田様にほっと気を抜いて歩いていると、突然名前を呼ばれて振り返った。一瞬聞き間違いかと思ったけれど、吉田様は振り返った私に間違いなく笑いかけた。
「まつりちゃんって、そう呼んでもいいかな?」
「えっ、あの」
—困ります。
そう返事をする前に吉田様は私の背後に向かって手をあげた。その動作に一緒に自分も振り返ると、田川様達が部屋から出てくるところだった。
「もう皆帰るみたいだ。案内ありがとう」
そう言って吉田様はぎゅっと私の手を握手するみたいに握って、田川様達が出ていらっしゃった通路に足早に歩いて行った。
かさり、と手の中に紙の感触がする。
メモのような感じもしたが、それをその場で見るわけにもいかず、さりげなく帯の中に隠しながら自分もお客様のお見送りのために彼等の後を追った。


河野様の接待相手であるお三方をタクシーでお送りした後、河野様の伝票を用意する。といっても先にスタッフが勘定をしてくれていたので領収書を渡すだけだったのだが。
料亭はなむらの大門まで河野様をお見送りに行くと、篝火のたかれたそこは静かで自分たちしかいなかった。勿論セキュリティカメラなどがついているのだがさすがに音までは拾わないだろう。
「いつもありがとうね。川田さんは本当にはなむらさんがお気に入りでね」
「いえ。お仕事が上手くいってようございました」
「それもはなむらさんのおかげだよ。またよろしくね」
「こちらこそよろしくお願い致します」
ぺこりとお辞儀をして河野様が去るのを見送ろうとすると、彼の手がついと胸の下あたりを掬うように動いた。
「?」
何が起きたのだろうと自分の帯のあたりを押さえて河野様を見ると、片手を軽く払われた。
「糸くずがついていたよ。じゃぁ、また」
「はい。またのお越しをお待ちしております」
去り際に密やかに「迎えに行くから仕事が終わったら電話して」と囁いて、彼は颯爽と去っていった。


お座敷の掃除などその晩の仕事を片付けると11時になってやっと帰路につけた。
携帯電話で河野様にメールを送ると、迎えに行くと一言返ってきた。
料亭の近くまで来られるのは困るのでコンビニよりは料亭に近い公園で落ち合うようにお願いしておく。
「お疲れさまでしたー」
「あ、まつりちゃん、ちょっとアナタ大丈夫?」
「へ?」
職員用の更衣室に入ると、先に来ていた30代の先輩に心配そうにそう言われた。
「何がですか?」
「あの今日のお客様。ちょっとあからさまじゃなかった?」
「えっ、な、何がですか?」
まずい。河野様のことがバレたんだろうか。焦ってそう言うと、彼女は尚も心配げに言い募る。
「お客さんに変なことや強引なことされたら、あたしたちを呼びなさいよ。まつりちゃんは賢くて良い子だけど、ああいう人のあしらい方をしらないから」
「は、あの、えっとお気遣いありがとうございます」
どうも河野様のことがバレたわけではないらしい。
お座敷で支給しているときに川田様に肩を抱かれたことを言っているのかもしれない。あからさま、というほどでもなかったが、お酒で気分が良かったのかほめ言葉を頂きながら軽く腕を回されたのだ。すぐに解かれたのでそこまで気にもしなかったけれど。
「お酒が入って気分良く酔ってる人達にとってはまつりちゃんみたいな若い子はコンパニオンと区別がつけられないんだから。本当に気をつけなさいよ」
それから数分くどくどと、心配をされている筈がいつのまにか説教をされている状態になって、ふんふんと頷きながら着替えを終えた。その頃には先輩も気が済んだのか、もしくはただ本人も着替え終わったからなのか彼女は違う先輩と世間話をしていて、私は一人で更衣室を出た。
「それじゃ、失礼します」
社員用の勝手口から出て駅に向かう他の従業員の後ろ姿を見送りながら、携帯電話を取り出す。
メールで河野様に今から出る由を連絡をしようと思っていたらとん、と目の前の壁にぶつかった。
「前を見て歩かないと危ないよ」
耳に馴染んだ人の声に慌てて顔をあげると思った通りの人がいらっしゃった。
「か、河野様。どうしてここに?」
「迎えに行くって、言ったろ?」
「でも、こんな料亭の近くまで!あぁもう、とりあえず、行きましょう」
店の誰かに見つかる前にその場を去るべく、ぐいぐいと河野様の腕を掴んで帰路についた。
河野様は見つかってもお客様だから良いけど、私には本当にクビになるかもしれない大事なのだ。いつも通りコンビニや公園で待っててくれたら良いのに。
「そんなに慌てなくても大丈夫だよ」
「駄目ですよ。何人かの方はこの近くにお住まいなんです。調理場の方ももう帰宅時間ですし、見つかったら大変なんですよ」
焦りのまったくない顔に少々苛ついた。そのせいか、自然と口数が減る。
コンビニの傍まで来て、そのまま通り過ぎようとした私の腕を河野様が引き止めた。
「どうしました?あ、コンビニに寄るんですか?」
「お土産があるって言っただろ」
「あ…そういえば」
すっかり忘れていた。
今日は初めて見た美人の池上様と、いつになく馴れ馴れしい吉田様に疲れてしまって、当初の約束が頭の隅に追いやられていたらしい。
覚えていたらもう少し早く仕事を終えたんだけど。
「こんなに遅くにお邪魔しても大丈夫なんですか?」
今日はまだ木曜で、時間は深夜まで20分くらい。
河野様はいつも朝7時半くらいには家を出ているらしいけれど、夜は12時くらいに寝ないと最低でも必要な睡眠時間が6時間くらいしかとれないんじゃないだろうか。いつもお邪魔すると1時間は引き止められるので、お土産だけもらってさようならというわけんもいかないだろうし。
「僕が来てもらいたいんだよ。さ、おいで」
「はぁ…」
本当は疲れていたので自分が家に帰りたかったのもあるんだけど。
強引な彼には逆らえないし、仕方ないと彼に促されて自分の家とは違う道へ曲がった。

貴方と私の境界線03

最初はチップをくれる懐の暖かい顧客だと思って接していた。
「楠木さん、これプレゼントがあるんだけど」
「まぁ、いつもありがとうございます」
この料亭では客からチップを貰ったらそれは全て店に渡り、お礼のお菓子包みをいつも帰りに手渡すことになっている。
だからその時も同じように店に何か持ってきてくれたのかと思って軽く受け取ろうとしたら、突然手を握られた。
「これは、君だけのために特別に買ったんだ。受け取ってくれるよね」
「あの、河野様、店のお約束でお客様から個人的には物を受け取っては駄目なのです。お気持ちは嬉しいのですが…」
この時本当は嬉しくて、貰えるものなら貰いたかったけれど、心中泣く泣く断ったのだ。河野様はお優しくて格好が良くて、担当につけることをいつも楽しみにしていた。どうにか嫌われないように、丁寧に丁寧に断ると、彼も分かってくれたのかその時は残念そうに引き下がってくれた。
しかし、その夜仕事の帰り道に何故か河野様にお会いしてしまったのだ。
職場で賄いのご飯が出るのであまり家事のための買い物はしないのだが、朝用の牛乳を切らしていたのでコンビニに寄ることにしたのだ。
まさかそんなところで会うことになるとは思わなかった。
「あっ…」
見覚えのある姿を雑誌棚のところで見つけて小さく声をあげると、彼が振り返った。料亭で会ったときと違って、彼は家に戻ってから出てきたのか私服に着替えていた。
「楠木さん」
こちらに気がつくと彼はぱっと笑顔になった。
「こんばんは、というか数時間ぶりか。今仕事帰り?」
「はぁ、そうですが…。河野様はお家はここらへんでしたか」
「うん、まぁ。楠木さんは私服だと印象が変わるんだね、一瞬分からなかった」
それはそうだ。仕事着の着物に奇麗に纏めたお団子頭と、普通のシャツにジーンズで髪の毛を降ろしている姿は顔が一緒でもまったく違うだろう。
「河野様は私服でも…」
そこまで言って言葉に詰まる。相変わらず格好良いですね、と言いかけたのだけど、そんな風にあからさまにお客様には言えないと思い返して。
「その、洗練されていらっしゃいますね」
少し考えた末に出てきた言葉がそんなので河野様は苦笑された。
「ところで、楠木さんはもう勤務時間外かな」
「はぁ、そうですが」
「だったら今晩渡し損ねたプレゼント、受け取ってもらえるよね?」
「え、あの」
突然そう言われて戸惑う。
確かに今ならば個人的に受け取れるかもしれないが、それでも遠慮できるものならしたい。いつどこに人の目があるか分からないし、お客様と個人的に仲良くなるのは避けるべしというのが店の教えだからだ。
「僕の家、近くなんだよ。取ってくるから、ね」
「河野さま!」
「ちょっと待ってて。すぐ戻るから」
そういい置いてかれは去って行ってしまった。なんて逃げ足の早い。
あまり経験のない私でも分かった。断られる前に逃げたのだ。そうしたら私が待っていることを見越して。
優秀な営業マンだけあって強引だが賢い。
仕方ない、と思い直して買い物を先に済ませることにした。

河野様はすぐに戻ってきた。本当に近くに住んでいるらしい。
コンビニの前で待っていた私の姿を見つけた彼はほっと頬を緩めた。
「これ、楠木さんに似合うと思って。京都に出張だったんですけど、露天で見かけて」
そう言って差し出されたのは奇麗に包まれた簪(かんざし)だった。鼈甲色のベースに花がモチーフの飾りがついている。とても繊細に作られていて、一目で露天で買うようなものではないと思った。
芸妓さんが前指しに使っても見劣りしないくらい奇麗だが、普通の服装にはまず合わない。
「ありがとうございます」
使い道があるかどうかは分からなかったが、とりあえず喜んでおこうとお礼を言った。
きっと仕事場で着物を着るから選んでくれたのだろう。実際には自分は社員用に支給された着物以外には浴衣すら持っていない。
着物はアンサンブルでも自分には高すぎるし、浴衣は今まで来ていく機会もなかったから買わなかった。
料亭の先輩達はよく着物のおさげを年配の方達から頂いていたり、お茶やお花を習いに行くときように色々買うみたいだが自分にはお手入れが大変なように思えたし、先輩に必要なときに貸して頂ける着物だけで十分に思えた。
だから、本当はこんな簪を頂いてもめったに使い道はなかったのだけれど。
「嬉しいです。とても、奇麗」
白い包み紙の中艶やかに光る簪にほうっとため息をついた。
「喜んでもらえて良かった」
にこにこと微笑む河野様もそう言って、私の手元から簪を抜き取った。
顔をあげた私の後ろに両手を回し、髪の毛をさらりと手櫛でとかれた。
まるで抱きしめられるかのような仕草に身硬くした私をよそに、彼は器用に指先でといた髪の毛をくるりと束ねてねじり、そこに簪を滑らした。
「うん、やっぱり、似合う」
身を離した彼は頭上から私の頭に留められた簪を褒める。
それはすぐにするりと解けてしまって、私が慌てて地面に落ちそうになった簪を受け止めた。同じように受け止めようとしたらしい河野様の手が私の手ごとそれを包み込んだ。
「あ」
「はは、落ちてしまったね」
彼はそうやって何事もなかったように笑うけれど、私の内心はどきどきと脈打つ鼓動がうるさくて、顔が熱く感じられるくらい緊張していた。
河野様は私の手を握ったままそれを身体の前でそっと開いた。でも私の手の下に彼の掌はまだ残っていた。
「河野様…?」
彼を見上げたとき、目が合う。
スローモーションのように彼の顔が降りてくるのが見えた。
どうしてか避けることが頭に思い浮かばず放心したように立ち尽くしていると、唇に柔らかい感触がした。
それは軽い感触を残したまますぐに離れた。
でも河野様の顔はまだ眼前にあった。
もう一度見つめあって、自分でも知らず彼を誘うように薄く唇を開く。
すると今度は長く、深く口付けられた。
初めてではなかったけれど、慣れているわけでもない。お子様のような体験しかしたことがなくて。
こんな大人のキスは知らなかった。
何度か啄まれて、目を開けると河野様は微笑んでいた。優しい笑顔だった。
「まつり、って呼んでも良いかな?」
「…はい」
そう聞かれて熱に浮かされたままの私が頷くと、また優しく口づけられた。

貴方と私の境界線02

「こちら今朝釣り上げられた旬の鮎でございます。それから…」
給支中は話しかけられるまでは無駄口は叩かないけれど、料理の説明だけはしなければならない。話の腰を折らないように、慎重にタイミングを計って料理を出す。さすがにこの仕事について数年経っているので慣れたが、最初の頃は失敗ばかりだった。
「美味しそうだね。はなむらさんは本当に良い料理を出してくれる」
「ありがとうございます」
田川様の褒め言葉に軽く頭を下げて答える。
「池上くん、食べてみたまえ。君はここ、初めてだろう?」
美人の女性は池上様と言うらしい。頭の中でメモにとりながら、一礼して部屋を辞した。
ふぅ、とため息をつく。
4人様と聞いていたので、二対二の席を用意したのだけれど河野さんが3人相手にすることになるとは知らなかった。しかも、河野さんの隣にはあの美人の池上様が座っている。
なんとなく今晩の席の目的が分かった気がする。
きっと田川様が池上様を紹介しようとして設けたのだろう。
河野様の立場的に断れないのではないのだろうか。勿論、普通こういう場合断れる筈だ。心証は悪くなるけれど、田川様だってごり押しはしないと思う。でも、河野様はなんといっても仕事人間だし、田川様の気を損ねることなんてしなさそう。しかも、池上様はあんなに美人だし。
——あぁ。
今晩の料理はまだ半分残っているのに、これからあの部屋に戻るのに気が重くなった。


7時頃から始まった接待は9時半を回ってもお開きにはならなかった。
料理自体は2時間ほどだが話しが盛り上がったのか、お酒を追加してしばらくお部屋にいらっしゃった。廊下に控えている間、漏れ聞こえてくる会話は、やはり思った通り田川様が池上様をさりげなく河野様とくっ付けようとしているものだった。
それが聞きたくなくて庭の池に住む蛙の泣き声に注意を向けていると、突然部屋の戸が開いた。
「あっ」
こちらが静かに佇んでいたのに驚いたのか、部屋から出て来た吉田様が小さく声を上げられた。
ぼうっとしていたのを見られてしまった失態に、恥ずかしさに顔を赤くして「どうか致しましたか」と尋ねると、お手洗いの場所を聞かれた。
「ご案内致します。こちらでございます」
もう料理は終わっているのでお酒とおつまみくらいしか持て成すものはないが、念のためすれ違った手の開いてる他の中居に指先だけでサインを送る。戻ってくるまでは彼女が部屋の近くで控えてくれるのだ。高級料亭はサービスが重きを置いているので、客の目につかないところで目配せやスタッフ同士のサインなどが始終飛び交っている。
「楠木さんは、こちらで何年くらい勤めていらっしゃるんですか?」
「えっ?」
すれ違った中居が向こうの廊下に消えたとき、突然後ろから話しかけられ驚いて小さく声をあげた。それに慌てて口元を袖で押さえる。
「すみません、突拍子な質問でしたよね」
後ろから聞こえる済まなさそうな声音に慌てて、軽く振り返って返答する。
「そんなことはございません。驚いてしまって申し訳ありませんでした。私はこちらで勤め始めて早4年ほどになります」
一晩のうちに二度目の失態をおかしてしまって、穴があったら入りたくなった。
それもこれも河野さんの接待に美人な方がいらっしゃったからだ。
頭の中でぶちぶち文句を言っていると、いつのまにか吉田様が横に並んで歩いていた。
「そうなんですか。じゃぁ楠木さんは僕よりも年上なのかな。僕はまだ社会人3年目だから」
「あ、いえ、私は進学せずにこの道に入りましたので、まだまだ若輩者でございます」
「へぇ、じゃぁまだ20代前半?落ち着いているからもっと上だと思ってた」
年齢を近いと見越したせいか、吉田様は従業員と客という線引きを取り除いてしまったのか、お手洗いの道すがら世間話を始めてしまった。
うちの料亭はあまりお客様と馴れ馴れしくするのは好まないので、先輩などに見られてしまわないかと冷や冷やする。
お手洗いの前に辿り着いても、彼の口は止まらなかった。
格子戸で中庭風にセットされて明らかにお手洗いとも書いてあるのだが、その入り口に立ったまま彼は中に入ろうともしない。一応格子戸を開けて「あの、こちらが」「お手洗いは」と話しの腰を折ろうとはしてみたものの、なかなか口を挟めない。
「楠木さんは下の名前何て言うの?」
「まつりと申します」
「へぇ、可愛いね」
「恐れ入ります」
褒められたはものの、心は早く中に入ってくれと焦っていた。他のお客様にこんな風に喋っているところを見られたら店の風評にも関わってくる。
「あの、お手洗いに御用だったのでは」
やっと言えたその言葉に彼はそうだった、と今気がついたようでやっと開いていた格子戸をくぐってくれた。ほっとため息をつこうとした寸前に、突然ぱっと振り返られてぎくりと息を止めた。
「あの、帰りの道分からないから待っててくれないかな」
「勿論でございます。ごゆっくりどうぞ」
困ったように告げられた言葉に営業用の笑みを返しながら、厠の奥に入っていく後ろ姿を確認して格子戸をしめた。
今度こそふぅーとため息をつく。
今日は調子が狂いっぱなしだ。
いつもだったら吉田様のようなお客を接客用の笑みで自分のペースに持っていけるのに、何故か向こうのペースになってしまっている。
料亭はなむらの中ではそれなりの古株でも、正社員の中ではまだまだ駆け出しだ。もしもこんなところで吉田様と世間話をしているところを見られでもしたら、すぐに目をつけられてしまう。
育ちが悪いことは、努力でカバーしてきた。社長にも直々に褒めてもらえるくらい毎日一生懸命働いてきた今までを失ってしまうのは嫌だ。
実際のところ河野様と付き合っていることを知られたら即刻首だろう。
そんなに大きなリスクがあるのにどうして断らなかったのか。

貴方と私の境界線01

この人と付きあっていられるのはそう長くない。
だってこの人は私の手に余るようなすごい人だから。


大手企業で営業をしているらしい彼は、よくうちの店に来ていた。
高級老舗で有名なうちの懐石料理屋は界隈の社会人に接待場所として人気で、彼もそんなビジネスマンの中の一人だ。

私の両親は早いうちに離婚していて、母は家を出たあと連絡は取っておらず、残った父はアルコール中毒で中学生の時に死んだ。親戚が面倒を見てくれたけれど高校に行くほどお金がある家じゃなかったので迷惑をかけたくなくて、それに奨学金を受けるほどの頭もなかったので中卒のまま、いくつかのアルバイトを点々とした。
その後、たまたま雑誌に乗っていた今の店のアルバイト募集の広告を見て、運良く採用してもらえたのだった。
初めてこの店に来てから早4年。私は21歳になり、店でも頑張りが認められて今年から正社員として雇用されることになった。
アルバイトと正社員の違いは、制服として着る着物の柄もだけど、役割も変わってくる。お客様を一部屋分担当することになるのだ。旅館の中居と同じ役割だ。

「河野様、おひさしぶりでございますね」
料亭はなむらの敷地は広い。表の普通客を迎える建物は全部の一角だけで、その後ろにある個室用のお座敷がある建物は、日本庭園に囲まれた昔の屋敷を改装したものだ。
板敷きが軽くきしみを上げる廊下を先導しながら、三歩ほど後ろを歩く彼にそう言うと、彼は苦笑して頷いた。
「一週間ほど休暇を取っていてね。従兄弟が海外挙式なんてあげるものだから、ついでにと思って」
「それはようございましたね。お仕事の骨休めにもなられたでしょう」
河野様という方は、うちの料亭でもかなり頻繁に利用して下さるお客様だった。大手企業の営業をしていらっしゃるというのは、つい最近頂いた名刺から知った。
「そうだね。仕事以外で海外に行くなんて久しぶりだったよ」
目的地のお座敷につき、床に膝をつきすっと襖をあける。彼が中に入ってから、後ろから着いてきていたお手伝いの子のお盆を受け取り、自分も部屋に入って襖を閉めた。
彼は慣れた様子でいつものお席に座る。
お盆の中から暖かいおしぼりを取り彼に手渡す。それからお茶を彼の前に置いた。
手を拭いた彼が使い終わったものおしぼりを返してきたのを受け取ろうとすると、ついと手を握られた。
「まつり」
「か、河野様」
馴れ馴れしく名を呼ばれる。慌てて狼狽える彼女に彼はふっと笑って声を潜める。
「お土産があるんだ」
「困ります、仕事中は」
同じように声を潜めて彼女も返した。
薄い襖で区切られた向こうに誰がいるともしれない。接待や会合に来られるお客様のために普通の日本屋敷よりは防音してあるけれど、それでも壁は薄いのだ。
「今日の仕事が上がったら、僕の家に来てくれるかな」
「…分かりました」
仕方なく頷く私に彼はくすくすと笑う。ため息をついて彼に掴まれた手を抜くと、彼は名残惜しそうに指先を撫でて手を離した。
それから意識を切り替えて、お盆を持って部屋を出た。

河野様、ならぬ河野信夫さんとお付き合いするようになってから、もう1ヶ月ほど経ったけれど、未だに彼と触れ合うのには慣れない。
嫌というわけではないけれど、緊張してしまう。男の人と付き合うのが初めてなワケでもないのに。ただ怖い。
彼という人は、底なし沼のようだ。
惹き付けられてしまえば最後、心を許してしまえば最後、後は堕ちる一方になりそうなほど、魅力的な人。ホストに入れ込んだりストーカーになるまで誰かを好きになるなんてどこか遠くの出来事のように感じていたのに、河野様という人を見ているとまるで自分もその泥沼に足を踏み入れそうな気がしてならない。
だから私は心を凍す。入れ込みすぎないように。理性が効くように。
後戻りできなくなる前のぎりぎりのところで、この人とのお付き合いを続けなければいけない。そうすればきっと、別れの時が来ても大丈夫だから。

「楠木さん、河野様のお連れ様がお着きになられました」
「今参ります」
接待先の方がお着きになったので急いで玄関に向かった。
今日のお客様は某商社の上役の方らしい。河野さんと何回かお見えになったことがあったので、自分とも一応は顔見知りであった。
「いらっしゃいませ、田川様。河野様はお部屋でお待ちでございます。どうぞお上がり下さいませ」
屋敷は土足厳禁なので玄関で靴を脱いでもらうことになっている。そのときスーツ姿でもビール腹が目立つ壮年の田川様の後ろに、二人ほど控えているのに気がついた。
「いらっしゃいませ、こちら段差がありますのでお足下にお気をつけ下さいませ」
営業用の笑顔で対応しながらも、失礼にならないよう伏し目ながらに靴を脱ぐ二人を観察する。
一人は田川様の下で働いている吉川、いや吉田様、だっただろうか。田川様と一回りほど違っているけれど、すごく期待されているらしく田川様がよく話題にお出しになられる。一度田川様が連れてこられたことがあって、河野さんと同じくらいの年の人だったのでなんとなく覚えていた。
その横におられる方は、女性だった。
とても美人。
すらりとして、自信がにじみ出るようなプロポーションと堂々とした態度。頭も良さそうだった。河野さんと並ぶと、とても似合いそうな人だと、すぐにそう思った。