Sunday, September 13, 2009

貴方と私の境界線09


「さぁさぁ、いらっしゃい」
仕事を上がったあと、おかみさんに連れられて初めて社長宅にお邪魔した。
はなむらの社長は料亭だけじゃなく居酒屋なんかのチェーンも経営していて、かなりのやり手だと聞いていた。それはこのお屋敷を見て納得できる。とても高そうな外装に内装だった。
「和室なんだけど大丈夫かしら。若い人は慣れないでしょう?」
「いえ、うちのアパートも畳でお布団で寝ていましたから」
同じ様式の内装でも天と地ほどの差の部屋に通され、お風呂とお手洗いの場所だけ教えてもらって彼女は朝も早いからと自室に行ってしまった。
木と畳の爽やかな香りのする部屋だった。
アパートは狭くて少ない家具を置いているだけで歩くスペースがぎりぎりあるだけだったから、人の住む匂いが染み付いていた。
広くて染み一つない和室を見渡して少しだけ河野様の部屋を思い出した。家具が少なくて人の住む匂いのあまりしないところだった。
恵さんのように、こんな大きくて裕福な家に生まれていたなら、私はもっと違う人生を歩んでいただろう。
河野様にお付き合いを申し込まれても自信を持って受け入れられただろうに。



恵さんにはやっぱり河野様のことをは言えなかったけれど、名を伏せて大体何があったかは話した。店のお客様とは言わずにその人がもしかすると自分を探してやってくるかもしれない、というのも。
どうやっておかみさんに伝えたのかは知らないけれど、何故か皆同情的な態度で裏方に回してくれて、しばらく店の表に出なくて良いことになった。
あの日から一週間以上経ったけれど河野様にはまだ出会っていなかった。
会いに行って、きちんと別れたほうが良いのかな。
でも昼間は河野様は仕事だし、彼の家に行くとなんだかんだと説得されそうで怖い。顔を見ずに別れられたら、そう思って携帯を握り締めても、どう切り出したら良いのか分からなかった。
大体携帯に一つも連絡が来ていないのだから、河野様は気にしていないのかもしれない。もう私たちの関係は終わったと思っているのかもしれない。
そんな風にもやもやを抱えていたとき、身体の不調はやってきた。
「うっ…」
夜のラッシュも終わろうという頃、裏方でお皿の片付けをしていたとき、突然酷い吐き気に襲われた。
慌ててトイレに向かったものの、間に合わず途中にあった掃除用のバケツの中に戻ってきた胃の中身を吐き出す。
「大丈夫か?!」
様子を見に来た調理場の人に心配されたが、バケツを片付けるので少し抜けると言伝を頼んだ。
吐いた後は多少お腹が痛いだけでそこまで体調に影響もなく、すぐに仕事に戻るともう店じまいの時間だった。

「まつり、どうしたの?吐いたって聞いたけど」
「うん、風邪なのかな、ちょっと熱っぽくてだるい感じなんだけど」
仕事が終わって更衣室に戻る途中、恵さんと出会った。
腹痛はいつのまにか消えて、少しだけ体が重たく感じるほどだった。額に手をあてても、それほど熱があるようには感じられない。軽い風邪だろうと笑うと、何故か恵さんは真剣な顔をした。
「まさかとは思うけど……妊娠してるなんてことはないわね」
「えぇ?」
まさか、と声を上げそうになって、ふと口元に手をあてる。
そういえば症状はつわりに似ているけれど。
「最後に生理が来たのはいつ?」
「わ、分からない。いつも不順でバラバラだし…だって」
言いながらどんどん自信が無くなってくる。
河野様が私の初めての相手だ。
最初の時からずっと、そういうことに関しては彼のリードに任せていたし、あれを着けなかった日はちゃんと外で出してくれていたし。
彼は手馴れていそうだったし、そういうものなんだと思っていたけれど。
そういえば。
最後の日。避妊具をつけていなかったような気がする。
まさか、でも、たった一週間でつわりが来るわけないし。でも、それ以前も、何度かつけない日があったけれど。
口元を押さえて青ざめる私を見て、恵さんは慌てたように更衣室に引っ張った。
とりあえず着替えるように促されてのろのろと着物を畳む。恵さんはさっさと着替え終えると慌てたように出て行った。
待っているように言われたので、他の従業員の人たちが帰っていくのを尻目に一人更衣室で座っていた。
つきん、とお腹が痛んだ。
また吐き気がしたが、更衣室のトイレでまた吐いても、もう胃液と唾液しか出なかった。
そんなわけはないと頭で声が響くが、もしもこれが妊娠だとしたら。
私はどうすれば良いのだろう。
一人で育てるなんて無理だ。
それ以前に自分の腹の中に新しい命が育っているなんて感覚がない。
河野様とは短い間の少しの夢になるつもりでしかなかったから、未来を予想しても無理だ。