Tuesday, July 21, 2009

貴方と私の境界線02

「こちら今朝釣り上げられた旬の鮎でございます。それから…」
給支中は話しかけられるまでは無駄口は叩かないけれど、料理の説明だけはしなければならない。話の腰を折らないように、慎重にタイミングを計って料理を出す。さすがにこの仕事について数年経っているので慣れたが、最初の頃は失敗ばかりだった。
「美味しそうだね。はなむらさんは本当に良い料理を出してくれる」
「ありがとうございます」
田川様の褒め言葉に軽く頭を下げて答える。
「池上くん、食べてみたまえ。君はここ、初めてだろう?」
美人の女性は池上様と言うらしい。頭の中でメモにとりながら、一礼して部屋を辞した。
ふぅ、とため息をつく。
4人様と聞いていたので、二対二の席を用意したのだけれど河野さんが3人相手にすることになるとは知らなかった。しかも、河野さんの隣にはあの美人の池上様が座っている。
なんとなく今晩の席の目的が分かった気がする。
きっと田川様が池上様を紹介しようとして設けたのだろう。
河野様の立場的に断れないのではないのだろうか。勿論、普通こういう場合断れる筈だ。心証は悪くなるけれど、田川様だってごり押しはしないと思う。でも、河野様はなんといっても仕事人間だし、田川様の気を損ねることなんてしなさそう。しかも、池上様はあんなに美人だし。
——あぁ。
今晩の料理はまだ半分残っているのに、これからあの部屋に戻るのに気が重くなった。


7時頃から始まった接待は9時半を回ってもお開きにはならなかった。
料理自体は2時間ほどだが話しが盛り上がったのか、お酒を追加してしばらくお部屋にいらっしゃった。廊下に控えている間、漏れ聞こえてくる会話は、やはり思った通り田川様が池上様をさりげなく河野様とくっ付けようとしているものだった。
それが聞きたくなくて庭の池に住む蛙の泣き声に注意を向けていると、突然部屋の戸が開いた。
「あっ」
こちらが静かに佇んでいたのに驚いたのか、部屋から出て来た吉田様が小さく声を上げられた。
ぼうっとしていたのを見られてしまった失態に、恥ずかしさに顔を赤くして「どうか致しましたか」と尋ねると、お手洗いの場所を聞かれた。
「ご案内致します。こちらでございます」
もう料理は終わっているのでお酒とおつまみくらいしか持て成すものはないが、念のためすれ違った手の開いてる他の中居に指先だけでサインを送る。戻ってくるまでは彼女が部屋の近くで控えてくれるのだ。高級料亭はサービスが重きを置いているので、客の目につかないところで目配せやスタッフ同士のサインなどが始終飛び交っている。
「楠木さんは、こちらで何年くらい勤めていらっしゃるんですか?」
「えっ?」
すれ違った中居が向こうの廊下に消えたとき、突然後ろから話しかけられ驚いて小さく声をあげた。それに慌てて口元を袖で押さえる。
「すみません、突拍子な質問でしたよね」
後ろから聞こえる済まなさそうな声音に慌てて、軽く振り返って返答する。
「そんなことはございません。驚いてしまって申し訳ありませんでした。私はこちらで勤め始めて早4年ほどになります」
一晩のうちに二度目の失態をおかしてしまって、穴があったら入りたくなった。
それもこれも河野さんの接待に美人な方がいらっしゃったからだ。
頭の中でぶちぶち文句を言っていると、いつのまにか吉田様が横に並んで歩いていた。
「そうなんですか。じゃぁ楠木さんは僕よりも年上なのかな。僕はまだ社会人3年目だから」
「あ、いえ、私は進学せずにこの道に入りましたので、まだまだ若輩者でございます」
「へぇ、じゃぁまだ20代前半?落ち着いているからもっと上だと思ってた」
年齢を近いと見越したせいか、吉田様は従業員と客という線引きを取り除いてしまったのか、お手洗いの道すがら世間話を始めてしまった。
うちの料亭はあまりお客様と馴れ馴れしくするのは好まないので、先輩などに見られてしまわないかと冷や冷やする。
お手洗いの前に辿り着いても、彼の口は止まらなかった。
格子戸で中庭風にセットされて明らかにお手洗いとも書いてあるのだが、その入り口に立ったまま彼は中に入ろうともしない。一応格子戸を開けて「あの、こちらが」「お手洗いは」と話しの腰を折ろうとはしてみたものの、なかなか口を挟めない。
「楠木さんは下の名前何て言うの?」
「まつりと申します」
「へぇ、可愛いね」
「恐れ入ります」
褒められたはものの、心は早く中に入ってくれと焦っていた。他のお客様にこんな風に喋っているところを見られたら店の風評にも関わってくる。
「あの、お手洗いに御用だったのでは」
やっと言えたその言葉に彼はそうだった、と今気がついたようでやっと開いていた格子戸をくぐってくれた。ほっとため息をつこうとした寸前に、突然ぱっと振り返られてぎくりと息を止めた。
「あの、帰りの道分からないから待っててくれないかな」
「勿論でございます。ごゆっくりどうぞ」
困ったように告げられた言葉に営業用の笑みを返しながら、厠の奥に入っていく後ろ姿を確認して格子戸をしめた。
今度こそふぅーとため息をつく。
今日は調子が狂いっぱなしだ。
いつもだったら吉田様のようなお客を接客用の笑みで自分のペースに持っていけるのに、何故か向こうのペースになってしまっている。
料亭はなむらの中ではそれなりの古株でも、正社員の中ではまだまだ駆け出しだ。もしもこんなところで吉田様と世間話をしているところを見られでもしたら、すぐに目をつけられてしまう。
育ちが悪いことは、努力でカバーしてきた。社長にも直々に褒めてもらえるくらい毎日一生懸命働いてきた今までを失ってしまうのは嫌だ。
実際のところ河野様と付き合っていることを知られたら即刻首だろう。
そんなに大きなリスクがあるのにどうして断らなかったのか。

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