Tuesday, August 11, 2009

貴方と私の境界線07

その紙の存在を思い出したのは、その夜の仕事の終わりだった。
着替えの時に帯をほどきながらふとそういえば、昨晩の接待の終わりに吉原様から何か手渡されそれを帯の間に挟んだことを思い出したのだ。
「どなたか昨日小さな紙切れみませんでした?」
着替えの時に落としたのかと思ったのだが、更衣室にいた人達に聞いてみたけれど誰もそれらしいものを見たことはないと言う。
「どこで落としたのかしら…」
何か大切な用事が書かれていなければ良いのだけれど。料亭内だったら従業員が拾ったならきっと落とし物箱に入れられていると思うけれど。
そこまで考えたところで、昨日の河野様の様子を思い出した。
——糸くずだったみたいだ———。
胸の下を掬う仕草はもしかすると帯からどうしてか覗いていた紙切れを見つけて取ったのかもしれない。
帯は分厚いから紙切れが取られたところで肌まで感触が伝わらないので分からないのだ。
どうして吉原様が私に何か手渡したことを知っているのだろう。昨日の接待の場で何かあったのだろうか。
気になって帰道に寄っても良いかとメールで聞くと彼からすぐに了承の返事が返ってきた。
更衣室から出て恵さん達に挨拶を済ませると、早足で料亭を出た。その日はたまたま仕事が長引いて深夜を超えそうだったからだ。基本的に料亭は10時までと決まっているのだけど、お得意さまが来るとそういう決まりは無いに等しい。大抵は二次会に繰り出される方が多いのだけれど、たまに会合などで長く居座られる方達もいるのだ。
「ごめんなさい、遅れて」
携帯電話ですぐに連絡をいれると、河野様は気にした風でもなく「迎えに行くよ」と優しく言ってくれた。
3分も歩かずに道の向こうから彼が歩いてくるのが見えた。
「仕事お疲れさま、まつり」
「近くにいらっしゃったんですか?」
「うん。コンビニで雑誌を読んでた」
 きっと待ってらっしゃったんだな、と思うと申し訳なく思って咄嗟に謝ろうとすると、口を開く前にきゅっと手を握られた。
「行こうか」
「…はい」

優しく微笑む彼に促されて帰道を歩きながら思う。
彼は本当に女の人の扱いに慣れている。
悪いことじゃないのかもしれない。河野様は優しくて紳士的で本当に文句のつけようがないのだ。
でも逆に不安になってしまう。
今までどれだけたくさんの人と付き合ってきたんだろう。
私にとって河野様は初めての人と言ってもおかしくないけれど、河野様にとっての私は彼の人生の中で見た何人もの女性の中の一人なのだ。
河野様のマンションの部屋に入りながら思う。
この部屋に今まで何人の女の人が入ったことがあるのだろうか。
私はその中の人と比べてどれだけ劣っているのだろう。
 学歴も見た目も。


「まつりから会おうって言うなんて珍しいね」
「そうですか?」
そうとぼけながらも、それはそうだと心の中で頷く。
 だって、彼と会うには何か言い訳が必要なのだ。
 そうでないと恐れ多くて聞けない。
 それにほぼ毎晩のように仕事の後彼に会っているせいか特別に彼に会わなければならない理由もない気がするし。
「あの、聞きたいことがあるんですけど」
「うん、何?」
いつものように牛乳のカクテルを作ってくれている彼の傍に立って、そう切り出すと彼はこちらを振り返った。
その目に見つめられて、少し狼狽える。
本当は軽く話しの話題に上らせようとしたのだけれど、彼は手元を止めてこちらの質問に答えてくれようとしているので、何故か二人の間に微妙な空気があるのが感じられた。
「あの、昨日、私の帯から紙切れを取りませんでしたか?」
お腹の前で指を遊ばせながら、そう聞くと彼は少し目を細めながら頷いた。
「うん、取ったよ」
「あの、えっと、中身を読みましたか?」
「うん、読んだ」
「え、そ、そう、ですか」
彼は変わらず私を見つめながらそう言うので、何故か気圧されながら頷いてみた。
勝手に紙切れを取ったことについての謝罪かもしくは中身について何か触れてくれるのかと思ったけれど、彼はそれ以上何も言わなかったので、私は首を傾げながらとりあえずその話を聞くのは止めた。
河野様はまたカウンターでカクテルを作る手を再開させて、私は手持ち無沙汰のまま彼の手元を眺める。
「…気になる?」
マドラーでかき混ぜる手を止めた彼がぼそりと呟くので一瞬何を言われたかは分からず、へ?と間抜けな声をあげると彼はこちらを振り向いて意地悪な笑みを浮かべた。
「あの紙の中身が気になる?」
「え、えぇ、それは、まぁ」
何故彼が突然態度を変えたのかが分からなくて、戸惑いながらも正直に答える。
気圧されるような、少し怒りが含まれているような彼の表情に、少し怖くなって後ずさると彼も一歩近づいてきた。
「まつりが付き合っているのは誰なの」
「え、あの、えっと…、信夫、さんです、よね?」
誰なの、と聞かれて、河野様と一瞬答えそうになり、つっかえながらもなんとか彼の下の名前を搾り出すと、彼はその答え方が不満だったのか眉間に皺を寄せた。
「君にとって僕たちの付き合いは確実じゃないの?」
「だ、だって、昨日も言いましたけど、世界が違うから」
 突然話が逸れたことに違和感を感じながらも正直に答える。
 世界が違いすぎるから私達の付き合いを信じることができないのだ。
 どうせ長く続かない。すぐに彼に飽きられる。そんな不安だらけ。
 それに、心の底にはプライドが邪魔して口にできない事が一つだけあった。
自分の中で一番恥ずかしく思っているのが、学歴のないことだ。
料亭で働いている人のほとんどが高校以上出ている。皆が若い頃の話をするのは大抵高校や大学の話で、私はその話を出されるたびに一人置いてきぼり感を感じる。
その学歴がないという事実は一生私に付きまとってくるんだろう。
 河野様には自分のことはほとんど話していない。年齢も何年料亭で勤めているかも。
 彼は知らないから今みたいに私を好きになったりできるのだ。
 バイリンガルで良い大学を出て良い企業に就職して。そんな完璧な道を進んできた彼と私が相容れるわけなんかないのだ。

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