Sunday, September 13, 2009

貴方と私の境界線09


「さぁさぁ、いらっしゃい」
仕事を上がったあと、おかみさんに連れられて初めて社長宅にお邪魔した。
はなむらの社長は料亭だけじゃなく居酒屋なんかのチェーンも経営していて、かなりのやり手だと聞いていた。それはこのお屋敷を見て納得できる。とても高そうな外装に内装だった。
「和室なんだけど大丈夫かしら。若い人は慣れないでしょう?」
「いえ、うちのアパートも畳でお布団で寝ていましたから」
同じ様式の内装でも天と地ほどの差の部屋に通され、お風呂とお手洗いの場所だけ教えてもらって彼女は朝も早いからと自室に行ってしまった。
木と畳の爽やかな香りのする部屋だった。
アパートは狭くて少ない家具を置いているだけで歩くスペースがぎりぎりあるだけだったから、人の住む匂いが染み付いていた。
広くて染み一つない和室を見渡して少しだけ河野様の部屋を思い出した。家具が少なくて人の住む匂いのあまりしないところだった。
恵さんのように、こんな大きくて裕福な家に生まれていたなら、私はもっと違う人生を歩んでいただろう。
河野様にお付き合いを申し込まれても自信を持って受け入れられただろうに。



恵さんにはやっぱり河野様のことをは言えなかったけれど、名を伏せて大体何があったかは話した。店のお客様とは言わずにその人がもしかすると自分を探してやってくるかもしれない、というのも。
どうやっておかみさんに伝えたのかは知らないけれど、何故か皆同情的な態度で裏方に回してくれて、しばらく店の表に出なくて良いことになった。
あの日から一週間以上経ったけれど河野様にはまだ出会っていなかった。
会いに行って、きちんと別れたほうが良いのかな。
でも昼間は河野様は仕事だし、彼の家に行くとなんだかんだと説得されそうで怖い。顔を見ずに別れられたら、そう思って携帯を握り締めても、どう切り出したら良いのか分からなかった。
大体携帯に一つも連絡が来ていないのだから、河野様は気にしていないのかもしれない。もう私たちの関係は終わったと思っているのかもしれない。
そんな風にもやもやを抱えていたとき、身体の不調はやってきた。
「うっ…」
夜のラッシュも終わろうという頃、裏方でお皿の片付けをしていたとき、突然酷い吐き気に襲われた。
慌ててトイレに向かったものの、間に合わず途中にあった掃除用のバケツの中に戻ってきた胃の中身を吐き出す。
「大丈夫か?!」
様子を見に来た調理場の人に心配されたが、バケツを片付けるので少し抜けると言伝を頼んだ。
吐いた後は多少お腹が痛いだけでそこまで体調に影響もなく、すぐに仕事に戻るともう店じまいの時間だった。

「まつり、どうしたの?吐いたって聞いたけど」
「うん、風邪なのかな、ちょっと熱っぽくてだるい感じなんだけど」
仕事が終わって更衣室に戻る途中、恵さんと出会った。
腹痛はいつのまにか消えて、少しだけ体が重たく感じるほどだった。額に手をあてても、それほど熱があるようには感じられない。軽い風邪だろうと笑うと、何故か恵さんは真剣な顔をした。
「まさかとは思うけど……妊娠してるなんてことはないわね」
「えぇ?」
まさか、と声を上げそうになって、ふと口元に手をあてる。
そういえば症状はつわりに似ているけれど。
「最後に生理が来たのはいつ?」
「わ、分からない。いつも不順でバラバラだし…だって」
言いながらどんどん自信が無くなってくる。
河野様が私の初めての相手だ。
最初の時からずっと、そういうことに関しては彼のリードに任せていたし、あれを着けなかった日はちゃんと外で出してくれていたし。
彼は手馴れていそうだったし、そういうものなんだと思っていたけれど。
そういえば。
最後の日。避妊具をつけていなかったような気がする。
まさか、でも、たった一週間でつわりが来るわけないし。でも、それ以前も、何度かつけない日があったけれど。
口元を押さえて青ざめる私を見て、恵さんは慌てたように更衣室に引っ張った。
とりあえず着替えるように促されてのろのろと着物を畳む。恵さんはさっさと着替え終えると慌てたように出て行った。
待っているように言われたので、他の従業員の人たちが帰っていくのを尻目に一人更衣室で座っていた。
つきん、とお腹が痛んだ。
また吐き気がしたが、更衣室のトイレでまた吐いても、もう胃液と唾液しか出なかった。
そんなわけはないと頭で声が響くが、もしもこれが妊娠だとしたら。
私はどうすれば良いのだろう。
一人で育てるなんて無理だ。
それ以前に自分の腹の中に新しい命が育っているなんて感覚がない。
河野様とは短い間の少しの夢になるつもりでしかなかったから、未来を予想しても無理だ。

Thursday, August 13, 2009

貴方と私の境界線08

「…やっぱり。無理です」
ぽつり、とそんな言葉が飛び出した。
無理。無理だ。何回考えても無理すぎる。
「何が?」
「河野様とお付き合いするのは無理です。辛いです」
両手で顔を覆ってその言葉だけ搾り出すように言った。
河野様の顔は見れなかった。見たくなかった。 本当は彼のことが好きだ。
好きで好きで堪らないから、いつも彼といると緊張して失敗しないように気を使いすぎて疲れてしまう。
こんな風に本当に些細な言い合い、喧嘩ですらない小さな事なのに、お別れの言葉を言うのは卑怯だ。自分でも分かってるのに。
でももう本当に疲れた。
この人と付き合っていられるのは長くない。いつどんなことでがっかりされるのか。もしも学歴がないことや育ちが悪いことがバレたら。
会うたびに好きになっていく。
それとともに不安も大きくなる。 いつ別れの時が来るのだろう、とそんなことばかりが頭に浮かぶ。
自分ももうそろそろ結婚して子供だっていてもおかしくない歳なのに、河野様と一緒の未来なんて想像すらできない。
「ごめんなさい、ごめんなさ…っ」
謝って許されることじゃないけれど、そう謝罪の言葉を口にしていると、顔を覆っていた手を突然強い
力でつかまれた。
驚いて顔をあげると河野様の顔が思わぬほど近くにある。
いつもは優しげでおっとりした雰囲気を纏っているのに、今は見たこともないくらい冷たい目をしていた。そんな顔で睨まれると蛇の前の蛙のように固まってしまう。
「駄目だよ、別れるなんて」
「あ…」
立ち尽くす私を腕の中に抱きこみながら、彼が耳元で囁いた。
「他の男のところへなんて行かせないから」
その言葉を引き金に後ろにあったソファに押し倒された。
「河野様っ」
「大丈夫、優しくするから。まつりが別れたいって言ったこと忘れるくらい、うんと優しくしてあげるから」
言葉通りに羽のように軽い口付けを額から頬に、唇に、そして首筋を辿るように落とされる。 まるで壊れ物を扱うように彼の指が身体を這う。
「っ…」
彼の舌が首筋をくすぐるように撫でると、ぞくぞくっと背中が弓なりにしなった。気持ち良い。
数えるほどしかない男性経験の中でも河野様が格別に上手なのは分かっている。
彼に触られると不安も吹き飛んでしまうくらい、頭が変になってしまうくらい感じてしまう。
いつの間にか抵抗するのも止めて身をゆだねていると、彼は満足気に私を見つめた。

明け方、目が覚めた。
隣では河野様が穏やかな顔で眠っている。
昨晩私を屈服させるのを目的の行為を何回もしたせいで体力を使ったのか、疲れているようでぐっすり寝ているようだ。
私も体が鉛のように重かったが、頭の中に一つの考えが浮かんで消えず、そのおかげで浅い眠りにしかつけなかったようだった。
静かな寝息を立てる彼の端整な顔をしばらく見つめた後、ベッドから抜け出してリビングの床に落ちていた服を拾い集めて身に着けた。
なるべく音を立てずに彼のマンションの部屋から抜け出すと、早朝の肌寒い空気の中を一目散に自分のアパートに向けて走った。
部屋に入ると真っ先にシャワーを浴びる。
身体に纏わりつくような彼の感触を振り切るようにボディソープで洗い、シャワーを終えた後は着替えながら何着かの服を旅行用鞄に詰めた。
銀行の通帳も忘れず詰めてから、急いでアパートを出る。
そのまま一直線に料亭に向かった。 土曜の朝はあまり人が多くない。
それは料亭内も同じで、調理場の人が仕入れのために数人いるだけだった。
「おはようございます」
門は鍵が閉まっているので入れてもらうと、顔見知りの壮年の板長が怪訝な顔をした。
「どうしたんだい、その荷物?」
「あ、その、ちょっと友達の所にお泊りに行くんです」
旅行鞄を持って来た理由を適当に作って社員用の更衣室に行く。自分用のロッカーに荷物を仕舞うと、財布と携帯電話だけ持ってまた外へ出た。
喫茶店でモーニングのセットを頼んでから、マナーモードにしていた携帯電話に目をやる。
まだ誰からもメールも電話も来ていない。 もうそろそろ河野様が起きる頃だと思ったのだけど。
そこまで思って、彼が勝手に帰った自分のことを怒るか心配するかして連絡を寄越すことを期待していたのを思い知る。
軽く頭を振って気を取り直すとこれからのことを考えて、恵さんに電話をかけた。

料亭の近くで一人暮らしをしている彼女は、もう起きていたらしく朝早くに電話をかけたことを面倒がりもせずにすぐに喫茶店までやって来てくれた。
「泊まるところがいるの?」
同じようにモーニングのセットを頼んだ彼女は、理由も言わずにただ泊めてくれないかと頼んだ私に聞きなおした。
「すみません、ご迷惑だとは分かっているんですけど」
「どうしたの?アパート追い出されちゃった?」
「いえ、本当に諸事情で」
追い出されてはいないけど、今のアパートは解約するつもりだった。
お金はかかるけれど仕方がない。 そうでもしなければあの人を忘れられそうもなかった。
料亭からの帰り道を歩くだけできっと河野様と歩いた思い出が浮かぶに違いない。
そんな思いを振り切るためにも今のところを引っ越したかった。
それにきっと音信普通になれば河野様はアパートの部屋までやってくるだろう。
ドア一枚隔たれただけだったらきっと誘惑に負けて開けてしまう。
もしくは彼の得意の話術で簡単にドアを開けるようにコントロールされてしまうのだ。
「お願いします、他に頼れる人が居ないんです」
「あぁ、そういえばまつりはご両親が…。そうね、分かった。私のマンションはワンルームだから狭くて無理だけど、実家の部屋を貸してあげるわ。そっちなら何日居ようと大丈夫だし」
「え」
恵さんの実家と言うと、料亭の裏にある新しい和風建築のお屋敷ではないのか。
つまるところ料亭の社長の家ということだ。もちろん社長もおかみと呼ばれている恵さんの両親も住んでいるわけで。
「だっ、駄目です。駄目です。恐れ多すぎます。無理です」
「大丈夫よ。うちの両親はまつりのこと気に入ってるし。なんなら家の掃除でも手伝ってあげたら喜んで居候させてくれるわよ」
「め、めぐみさぁん」
無理だと首を振ったのに、彼女はすぐに乗り気になって、食べ終わったらすぐに実家に行こうと言った。

Tuesday, August 11, 2009

貴方と私の境界線07

その紙の存在を思い出したのは、その夜の仕事の終わりだった。
着替えの時に帯をほどきながらふとそういえば、昨晩の接待の終わりに吉原様から何か手渡されそれを帯の間に挟んだことを思い出したのだ。
「どなたか昨日小さな紙切れみませんでした?」
着替えの時に落としたのかと思ったのだが、更衣室にいた人達に聞いてみたけれど誰もそれらしいものを見たことはないと言う。
「どこで落としたのかしら…」
何か大切な用事が書かれていなければ良いのだけれど。料亭内だったら従業員が拾ったならきっと落とし物箱に入れられていると思うけれど。
そこまで考えたところで、昨日の河野様の様子を思い出した。
——糸くずだったみたいだ———。
胸の下を掬う仕草はもしかすると帯からどうしてか覗いていた紙切れを見つけて取ったのかもしれない。
帯は分厚いから紙切れが取られたところで肌まで感触が伝わらないので分からないのだ。
どうして吉原様が私に何か手渡したことを知っているのだろう。昨日の接待の場で何かあったのだろうか。
気になって帰道に寄っても良いかとメールで聞くと彼からすぐに了承の返事が返ってきた。
更衣室から出て恵さん達に挨拶を済ませると、早足で料亭を出た。その日はたまたま仕事が長引いて深夜を超えそうだったからだ。基本的に料亭は10時までと決まっているのだけど、お得意さまが来るとそういう決まりは無いに等しい。大抵は二次会に繰り出される方が多いのだけれど、たまに会合などで長く居座られる方達もいるのだ。
「ごめんなさい、遅れて」
携帯電話ですぐに連絡をいれると、河野様は気にした風でもなく「迎えに行くよ」と優しく言ってくれた。
3分も歩かずに道の向こうから彼が歩いてくるのが見えた。
「仕事お疲れさま、まつり」
「近くにいらっしゃったんですか?」
「うん。コンビニで雑誌を読んでた」
 きっと待ってらっしゃったんだな、と思うと申し訳なく思って咄嗟に謝ろうとすると、口を開く前にきゅっと手を握られた。
「行こうか」
「…はい」

優しく微笑む彼に促されて帰道を歩きながら思う。
彼は本当に女の人の扱いに慣れている。
悪いことじゃないのかもしれない。河野様は優しくて紳士的で本当に文句のつけようがないのだ。
でも逆に不安になってしまう。
今までどれだけたくさんの人と付き合ってきたんだろう。
私にとって河野様は初めての人と言ってもおかしくないけれど、河野様にとっての私は彼の人生の中で見た何人もの女性の中の一人なのだ。
河野様のマンションの部屋に入りながら思う。
この部屋に今まで何人の女の人が入ったことがあるのだろうか。
私はその中の人と比べてどれだけ劣っているのだろう。
 学歴も見た目も。


「まつりから会おうって言うなんて珍しいね」
「そうですか?」
そうとぼけながらも、それはそうだと心の中で頷く。
 だって、彼と会うには何か言い訳が必要なのだ。
 そうでないと恐れ多くて聞けない。
 それにほぼ毎晩のように仕事の後彼に会っているせいか特別に彼に会わなければならない理由もない気がするし。
「あの、聞きたいことがあるんですけど」
「うん、何?」
いつものように牛乳のカクテルを作ってくれている彼の傍に立って、そう切り出すと彼はこちらを振り返った。
その目に見つめられて、少し狼狽える。
本当は軽く話しの話題に上らせようとしたのだけれど、彼は手元を止めてこちらの質問に答えてくれようとしているので、何故か二人の間に微妙な空気があるのが感じられた。
「あの、昨日、私の帯から紙切れを取りませんでしたか?」
お腹の前で指を遊ばせながら、そう聞くと彼は少し目を細めながら頷いた。
「うん、取ったよ」
「あの、えっと、中身を読みましたか?」
「うん、読んだ」
「え、そ、そう、ですか」
彼は変わらず私を見つめながらそう言うので、何故か気圧されながら頷いてみた。
勝手に紙切れを取ったことについての謝罪かもしくは中身について何か触れてくれるのかと思ったけれど、彼はそれ以上何も言わなかったので、私は首を傾げながらとりあえずその話を聞くのは止めた。
河野様はまたカウンターでカクテルを作る手を再開させて、私は手持ち無沙汰のまま彼の手元を眺める。
「…気になる?」
マドラーでかき混ぜる手を止めた彼がぼそりと呟くので一瞬何を言われたかは分からず、へ?と間抜けな声をあげると彼はこちらを振り向いて意地悪な笑みを浮かべた。
「あの紙の中身が気になる?」
「え、えぇ、それは、まぁ」
何故彼が突然態度を変えたのかが分からなくて、戸惑いながらも正直に答える。
気圧されるような、少し怒りが含まれているような彼の表情に、少し怖くなって後ずさると彼も一歩近づいてきた。
「まつりが付き合っているのは誰なの」
「え、あの、えっと…、信夫、さんです、よね?」
誰なの、と聞かれて、河野様と一瞬答えそうになり、つっかえながらもなんとか彼の下の名前を搾り出すと、彼はその答え方が不満だったのか眉間に皺を寄せた。
「君にとって僕たちの付き合いは確実じゃないの?」
「だ、だって、昨日も言いましたけど、世界が違うから」
 突然話が逸れたことに違和感を感じながらも正直に答える。
 世界が違いすぎるから私達の付き合いを信じることができないのだ。
 どうせ長く続かない。すぐに彼に飽きられる。そんな不安だらけ。
 それに、心の底にはプライドが邪魔して口にできない事が一つだけあった。
自分の中で一番恥ずかしく思っているのが、学歴のないことだ。
料亭で働いている人のほとんどが高校以上出ている。皆が若い頃の話をするのは大抵高校や大学の話で、私はその話を出されるたびに一人置いてきぼり感を感じる。
その学歴がないという事実は一生私に付きまとってくるんだろう。
 河野様には自分のことはほとんど話していない。年齢も何年料亭で勤めているかも。
 彼は知らないから今みたいに私を好きになったりできるのだ。
 バイリンガルで良い大学を出て良い企業に就職して。そんな完璧な道を進んできた彼と私が相容れるわけなんかないのだ。

Tuesday, August 4, 2009

貴方と私の境界線06

翌朝、10時すぎに聞き慣れないアラームに起こされ、目を覚ますと河野様の部屋に居た。
二回ほど抱かれて、疲労困憊のそのまま泊まってしまったらしい。
朝出かける時に起こして欲しいと頼んだ覚えがあるのだけど、忘れられていたのかわざと無視したのか。
小さく金属がこすれる音がして、ふと胸元を見ると華奢なネックレスがかかっていた。
そういえば昨日お土産があると言っていたけれど結局渡されなかった。もしかするとこれがそうなのかもしれない。
しかし、こういうのはお土産とは世間一般では言わないのではないかな。どちらかというとプレゼントの域だと思うのだけど。
バスルームに行ってもっとよく見ようと鏡の前に立つ。
すると奇麗なプラチナのネックレスの横に赤紫色に変色した肌が見えた。
「うわー…」
キスマークというのはピンク色で小さくて可愛いものだと幼心にずっと思っていたのだけれど、最近その夢がことごとく壊されていると思う。
背中側から首の付け根にかけて手のひらくらいの大きさの痣がつけられている。
後ろから抱かれながら何度もその辺りを吸われた覚えがあるのでそのせいだろう。そこらへんに舌を這わされるとぞくぞくしてしまうので、河野様がことさら好んでそこを責めるのだ。
しかし。
「隠れるのかな、これ」
着物のえりあしから覗かなければ良いのだけど。
まぁ芸妓さん達の着物と違って業務用のは首があまり出ないから大丈夫かな。

シャワーを浴びて、そのまま河野様の部屋に置かれている服に着替えて出勤した。
家まで5分程度だったけれど11時出勤なので、河野様の部屋から直接仕事場に向かった方が楽だからだ。
10時に起こされたことにそこはかとなく河野様の意思を感じる。あの方は私が彼の家で自分の家のように振る舞うのが好きなのだ。
きっと同棲したいと言うのが本音なんだろうけれど。
でも私にはこの部屋の家賃を折半なんでできないし。立地と広さを考えたらきっと20万近くすると思う。


「あら、今日は早いじゃない」
「うん、ちょっと早く出たの」
更衣室で恵さんに出会った。
恵さんは料亭のおかみの娘さんで、私よりも3歳年上だが、いつも気さくに話しかけてくれていつのまにか友達になっていた。
社員用の箪笥から着物を出して身につける。
ここで働きだしてから、有料のクラスに通わずに着付けやお花とお茶を覚えることができたのはとても運が良かったと思う。料亭の正社員の人は皆なにかしらの免許を持っている。
おかみさんが率先してアルバイトの子達にも教えてくれるから、6年間ここで働いていた間にいくつか免許を貰った。高い着物は買わなくても恵さんに頼めば貸して貰えたから、ちゃんとした公式の場に出て披露したこともある。
料亭のお茶室は茶道の会室にも使われることもあって、高名な先生方が来たりして、その伝手でたまにこの料亭の人たちに教えてくれることもあった。
「あら、なぁに、それ」
恵さんに指差されて、はっと思い出して首筋をおさえた。
顔を赤く染めた私を見て彼女はけらけらと笑う。
「やらしー」
「違うの、これは」
「別に気にしないわよ。着物から見えなかったら」
ふふふ、と恵さんは含み笑う。
「それよりも、いつからよ。聞いてないわよ」
「つ、つい最近付き合いだして、だから」
親友といっても過言でない恵さんに河野さんのことを話していなかったので、しどろもどろに説明しようとすると彼女は全て分かっているとでも言うように頷いた。
「大人だもの。友達に言えないような付き合いがあっても仕方ないわよ。気にしないで」
その言葉の裏に少しだけ寂しさを感じたけれど、私は小さく笑ってありがとうと呟いた。
恵さんに話そうかと思ったことは何回かあった。
特に河野様と初めてキスした翌日は半分パニックになっていて、嬉しさと困惑と不安の入り交じった気持ちを彼女に聞いてもらいたいと1日中考えていた。
それでもどうしても話せなかった。彼女はおかみの娘さんなのだ。店と友達とどちらを彼女が選ぶのか分からなかったし、もしも自分の側に立って応援してくれてもそうすると今度は店を裏切ってお世話になったおかみの娘さんまで自分の側に立たせてしまうと思うと罪悪感が沸いてくる。
だから未だに河野様と付き合っているのは私だけの秘密なのだ。
「でもすごいわね。そんなおっきなマークつけられちゃったら2週間は残るんじゃない?浮気のしようもないわね」
帯をしめる私の襟首を覗き込みながら恵さんが言う言葉に、驚いて振り返る。
「浮気なんてしませんよ」
「こういう痕を残す人って嫉妬深いのよ」
河野様と嫉妬という言葉があまり結びつかなくて首を傾げると、恵さんに背中をぱんと軽く叩かれた。
「変な男には気をつけなさいよ」
「…はい」
「さて、じゃぁ仕事しますか。まつりは今日はお座敷は無し?」
「はい。今日は恵さんのサポートです」
「やった。休憩一緒に入れるわね」
明るく言う恵さんに、河野様のことを黙っている罪悪感に苛まれながら、一緒に更衣室から出た。

Sunday, August 2, 2009

貴方と私の境界線05

ソファに座って河野様はお水、私はカルーアミルクというコーヒーベースのアルコールを牛乳で割った飲み物を出してもらった。
最初にこの家に同じように仕事帰りに招待されたときコーヒーか紅茶を勧められて、夜はカフェイン系は飲まないようにしているというとこれを出された。甘くて美味しいし、ほろ酔い気分で家に帰るとよく眠れるので気に入っている。
しかし、いつもはコーヒーを飲まれる河野様がお水を口にしているのに首を傾げると、彼は苦笑いを浮かべた。
「今日は田川様にたくさん飲まされてね。ちょっと水で流さないと、明日ひどいことになりそうだから」
そう言いながらも彼はあまり酔っているようには見えないけれど。
そう思っていると、隣に座った彼が肩を抱き寄せて、くっついていた身体が余計に密着する。
見上げると、河野様にちゅっと口づけられた。
あぁ、でも、そういえばアルコールの匂いがいつもよりする。
あまり香水をつけなくて煙草も私の前では吸われないので、河野様はいつも服から香る洗濯洗剤と男の人の体臭の入り交じった香りがする。加齢臭とかではなくて、ただ女の子と違ったどこか包まれるような匂いだ。もしかするとフェロモンと言うのかな。
でも今日はちょっと違う。
アルコールの匂いの他に、田川様が吸われるからかほんのりと煙草の香りがシャツにしみこんでいる。
あと、ほのかに香水の香りもした。それが誰のものかは、部屋で配膳をしていたときに嗅いだことがあるからすぐに分かった。
「まつり?」
「はい、なんですか」
少し暗くなってしまった表情に慌てて笑みを浮かべ直した。
馬鹿だなぁ。別に二人が抱き合ったわけじゃないことくらい、解っているのに。でも嫉妬してしまうのは、あまりにも彼等がお似合いだったからだ。今日の会合も上手く行ったのかな。
「いや、なんでもない」
「はぁ」
「それより、…おいで」
腰を引かれて抗う間もなく彼の膝の上に向き合うように乗せられた。
今日は白いふんわりとしたスカートを履いていたから、難なく彼の上に馬乗りになれたけれど、ソファの上で足を開いて座ると膝までスカートがめくれあがって恥ずかしい。
「河野様…」
「この状態でそう呼ばれるのも背徳的で良いけどさ。でも何回志信だって言い直せば良いのかな?」
「ご、ごめんなさい。信夫、さん」
何度言われても慣れない。
背徳的に感じるのはこちらの方だ。
河野様は店の大事なお客様で私がこんな風に接してはいけない人なのに。
「悪い子には、おしおきしても良いのかな」
そう言って罰が悪そうに顔を逸らした私の腰のくびれ辺りを何度かその大きな手で撫でたあと、するりと服の裾から中に入り込んでくる。
「河野様、私たち、明日もお仕事が」
おしおきの意味に気づいて、慌てて胸の下まできていた手を押さえて止めると河野様はあからさまに眉をしかめた。そして自分もしまったと口を押さえる。
「そんなに僕の名前を呼びたくないのかな」
「頭では解ってはいるんですけど。ただ、河野様はお客様だから」
咄嗟に出てくるのが様付けで良いじゃないか。そうすれば店の誰かに思わぬところで出会っても様付けだったら怪しげに思われないかもだし。
「まつりはいつもそうだよね。店、客、それから周りの目」
それの何がいけないの。
今の仕事は私が苦労して手に入れたものだもの。
中卒資格で雇ってくれるところは本当に少ない。アルバイトはいくらでもできるけれど、自分だけのお給料で十分に暮らせるようになったのはつい最近のことだ。
毎月の家賃と生活費を稼いで税金を払って残りを貯蓄に回したら遊べるお金なんてほとんどなかった。高校、大学と進学して行った友達とは段々話が合わなくなって会う数も減った。
でも今は違う。
正社員雇用になったから生活で保証される特典も多くなったし、十分なお給料も貰えるようになった。もう明日怪我をしたらどうしよう、大きな病気になったらどうしようと不安になることもなくなった。親戚の人達にお金を借りることもしなくて良い。
「私は、河野様とは生きている世界が違うんです」
河野様を知れば知るほどそう思う。
中学の卒業資格しか持っていない自分と違って彼は大学院まで行っている。留学経験があって英語もぺらぺらで、実家は東京の一等地。両親は健在で、父親は結構有名な会社の役員で母親は趣味で料理教室を開いているらしい。一人居る兄はお医者さんだとか。
自分のことを喋るのを憚ってしまう私と違って、彼は自分の経歴に恥じることなんて一つもないんだろう。
「何が違うんだ。君は料亭で働いて僕は会社員だけど、こうやって抱き合ってる僕らがどんな違う世界に居るって言うんだ」
彼の膝に跨がったままの私の腰を彼がぎゅっと掴む。
「全然違いますよ…」
そう言って彼の目を覗き込むと、彼は誤摩化すように素早く私に口づけた。
「僕のこと、好き?」
「好きですよ」
「僕もだよ。それだけで僕たちが一緒にいる十分な理由じゃないか」
—――全然、十分じゃないですよ。
でもその言葉は長いキスに妨げられて結局口には出せなかった。

Tuesday, July 21, 2009

貴方と私の境界線04

最初はそんな感じで始まった。
河野様は相変わらず2週間に一度くらいの頻度ではなむらを利用して下さったけれど、以前と違って私の仕事帰りの道でも何度かお会いした。
最初の日に携帯電話の番号を交換したとき以来、夜道は危ないからと可能な日は送って下さるのだ。
料亭の周りは店の人の目もあるので河野様の家の近くのコンビニから、二人で歩きながらぽつぽつと他愛のない話しをして夜道を歩く。その時間はとても幸せだった。
こんな風に異性の人と並んで歩くのは中学校のときのほろ苦い記憶以来だったから。


カラリと軽い音を立てて格子戸が開けられて吉田様が出てこられた。
「ごめんね、お待たせして」
「いいえ、ではお部屋にまたご案内致します」
少し入り組んだ造りとはいえ、そこまでお座敷への道はややこしくないと思うけどな。そう思いながら吉田様を先導する。
「まつりちゃん」
行きと違って帰道は世間話もせず静かな吉田様にほっと気を抜いて歩いていると、突然名前を呼ばれて振り返った。一瞬聞き間違いかと思ったけれど、吉田様は振り返った私に間違いなく笑いかけた。
「まつりちゃんって、そう呼んでもいいかな?」
「えっ、あの」
—困ります。
そう返事をする前に吉田様は私の背後に向かって手をあげた。その動作に一緒に自分も振り返ると、田川様達が部屋から出てくるところだった。
「もう皆帰るみたいだ。案内ありがとう」
そう言って吉田様はぎゅっと私の手を握手するみたいに握って、田川様達が出ていらっしゃった通路に足早に歩いて行った。
かさり、と手の中に紙の感触がする。
メモのような感じもしたが、それをその場で見るわけにもいかず、さりげなく帯の中に隠しながら自分もお客様のお見送りのために彼等の後を追った。


河野様の接待相手であるお三方をタクシーでお送りした後、河野様の伝票を用意する。といっても先にスタッフが勘定をしてくれていたので領収書を渡すだけだったのだが。
料亭はなむらの大門まで河野様をお見送りに行くと、篝火のたかれたそこは静かで自分たちしかいなかった。勿論セキュリティカメラなどがついているのだがさすがに音までは拾わないだろう。
「いつもありがとうね。川田さんは本当にはなむらさんがお気に入りでね」
「いえ。お仕事が上手くいってようございました」
「それもはなむらさんのおかげだよ。またよろしくね」
「こちらこそよろしくお願い致します」
ぺこりとお辞儀をして河野様が去るのを見送ろうとすると、彼の手がついと胸の下あたりを掬うように動いた。
「?」
何が起きたのだろうと自分の帯のあたりを押さえて河野様を見ると、片手を軽く払われた。
「糸くずがついていたよ。じゃぁ、また」
「はい。またのお越しをお待ちしております」
去り際に密やかに「迎えに行くから仕事が終わったら電話して」と囁いて、彼は颯爽と去っていった。


お座敷の掃除などその晩の仕事を片付けると11時になってやっと帰路につけた。
携帯電話で河野様にメールを送ると、迎えに行くと一言返ってきた。
料亭の近くまで来られるのは困るのでコンビニよりは料亭に近い公園で落ち合うようにお願いしておく。
「お疲れさまでしたー」
「あ、まつりちゃん、ちょっとアナタ大丈夫?」
「へ?」
職員用の更衣室に入ると、先に来ていた30代の先輩に心配そうにそう言われた。
「何がですか?」
「あの今日のお客様。ちょっとあからさまじゃなかった?」
「えっ、な、何がですか?」
まずい。河野様のことがバレたんだろうか。焦ってそう言うと、彼女は尚も心配げに言い募る。
「お客さんに変なことや強引なことされたら、あたしたちを呼びなさいよ。まつりちゃんは賢くて良い子だけど、ああいう人のあしらい方をしらないから」
「は、あの、えっとお気遣いありがとうございます」
どうも河野様のことがバレたわけではないらしい。
お座敷で支給しているときに川田様に肩を抱かれたことを言っているのかもしれない。あからさま、というほどでもなかったが、お酒で気分が良かったのかほめ言葉を頂きながら軽く腕を回されたのだ。すぐに解かれたのでそこまで気にもしなかったけれど。
「お酒が入って気分良く酔ってる人達にとってはまつりちゃんみたいな若い子はコンパニオンと区別がつけられないんだから。本当に気をつけなさいよ」
それから数分くどくどと、心配をされている筈がいつのまにか説教をされている状態になって、ふんふんと頷きながら着替えを終えた。その頃には先輩も気が済んだのか、もしくはただ本人も着替え終わったからなのか彼女は違う先輩と世間話をしていて、私は一人で更衣室を出た。
「それじゃ、失礼します」
社員用の勝手口から出て駅に向かう他の従業員の後ろ姿を見送りながら、携帯電話を取り出す。
メールで河野様に今から出る由を連絡をしようと思っていたらとん、と目の前の壁にぶつかった。
「前を見て歩かないと危ないよ」
耳に馴染んだ人の声に慌てて顔をあげると思った通りの人がいらっしゃった。
「か、河野様。どうしてここに?」
「迎えに行くって、言ったろ?」
「でも、こんな料亭の近くまで!あぁもう、とりあえず、行きましょう」
店の誰かに見つかる前にその場を去るべく、ぐいぐいと河野様の腕を掴んで帰路についた。
河野様は見つかってもお客様だから良いけど、私には本当にクビになるかもしれない大事なのだ。いつも通りコンビニや公園で待っててくれたら良いのに。
「そんなに慌てなくても大丈夫だよ」
「駄目ですよ。何人かの方はこの近くにお住まいなんです。調理場の方ももう帰宅時間ですし、見つかったら大変なんですよ」
焦りのまったくない顔に少々苛ついた。そのせいか、自然と口数が減る。
コンビニの傍まで来て、そのまま通り過ぎようとした私の腕を河野様が引き止めた。
「どうしました?あ、コンビニに寄るんですか?」
「お土産があるって言っただろ」
「あ…そういえば」
すっかり忘れていた。
今日は初めて見た美人の池上様と、いつになく馴れ馴れしい吉田様に疲れてしまって、当初の約束が頭の隅に追いやられていたらしい。
覚えていたらもう少し早く仕事を終えたんだけど。
「こんなに遅くにお邪魔しても大丈夫なんですか?」
今日はまだ木曜で、時間は深夜まで20分くらい。
河野様はいつも朝7時半くらいには家を出ているらしいけれど、夜は12時くらいに寝ないと最低でも必要な睡眠時間が6時間くらいしかとれないんじゃないだろうか。いつもお邪魔すると1時間は引き止められるので、お土産だけもらってさようならというわけんもいかないだろうし。
「僕が来てもらいたいんだよ。さ、おいで」
「はぁ…」
本当は疲れていたので自分が家に帰りたかったのもあるんだけど。
強引な彼には逆らえないし、仕方ないと彼に促されて自分の家とは違う道へ曲がった。

貴方と私の境界線03

最初はチップをくれる懐の暖かい顧客だと思って接していた。
「楠木さん、これプレゼントがあるんだけど」
「まぁ、いつもありがとうございます」
この料亭では客からチップを貰ったらそれは全て店に渡り、お礼のお菓子包みをいつも帰りに手渡すことになっている。
だからその時も同じように店に何か持ってきてくれたのかと思って軽く受け取ろうとしたら、突然手を握られた。
「これは、君だけのために特別に買ったんだ。受け取ってくれるよね」
「あの、河野様、店のお約束でお客様から個人的には物を受け取っては駄目なのです。お気持ちは嬉しいのですが…」
この時本当は嬉しくて、貰えるものなら貰いたかったけれど、心中泣く泣く断ったのだ。河野様はお優しくて格好が良くて、担当につけることをいつも楽しみにしていた。どうにか嫌われないように、丁寧に丁寧に断ると、彼も分かってくれたのかその時は残念そうに引き下がってくれた。
しかし、その夜仕事の帰り道に何故か河野様にお会いしてしまったのだ。
職場で賄いのご飯が出るのであまり家事のための買い物はしないのだが、朝用の牛乳を切らしていたのでコンビニに寄ることにしたのだ。
まさかそんなところで会うことになるとは思わなかった。
「あっ…」
見覚えのある姿を雑誌棚のところで見つけて小さく声をあげると、彼が振り返った。料亭で会ったときと違って、彼は家に戻ってから出てきたのか私服に着替えていた。
「楠木さん」
こちらに気がつくと彼はぱっと笑顔になった。
「こんばんは、というか数時間ぶりか。今仕事帰り?」
「はぁ、そうですが…。河野様はお家はここらへんでしたか」
「うん、まぁ。楠木さんは私服だと印象が変わるんだね、一瞬分からなかった」
それはそうだ。仕事着の着物に奇麗に纏めたお団子頭と、普通のシャツにジーンズで髪の毛を降ろしている姿は顔が一緒でもまったく違うだろう。
「河野様は私服でも…」
そこまで言って言葉に詰まる。相変わらず格好良いですね、と言いかけたのだけど、そんな風にあからさまにお客様には言えないと思い返して。
「その、洗練されていらっしゃいますね」
少し考えた末に出てきた言葉がそんなので河野様は苦笑された。
「ところで、楠木さんはもう勤務時間外かな」
「はぁ、そうですが」
「だったら今晩渡し損ねたプレゼント、受け取ってもらえるよね?」
「え、あの」
突然そう言われて戸惑う。
確かに今ならば個人的に受け取れるかもしれないが、それでも遠慮できるものならしたい。いつどこに人の目があるか分からないし、お客様と個人的に仲良くなるのは避けるべしというのが店の教えだからだ。
「僕の家、近くなんだよ。取ってくるから、ね」
「河野さま!」
「ちょっと待ってて。すぐ戻るから」
そういい置いてかれは去って行ってしまった。なんて逃げ足の早い。
あまり経験のない私でも分かった。断られる前に逃げたのだ。そうしたら私が待っていることを見越して。
優秀な営業マンだけあって強引だが賢い。
仕方ない、と思い直して買い物を先に済ませることにした。

河野様はすぐに戻ってきた。本当に近くに住んでいるらしい。
コンビニの前で待っていた私の姿を見つけた彼はほっと頬を緩めた。
「これ、楠木さんに似合うと思って。京都に出張だったんですけど、露天で見かけて」
そう言って差し出されたのは奇麗に包まれた簪(かんざし)だった。鼈甲色のベースに花がモチーフの飾りがついている。とても繊細に作られていて、一目で露天で買うようなものではないと思った。
芸妓さんが前指しに使っても見劣りしないくらい奇麗だが、普通の服装にはまず合わない。
「ありがとうございます」
使い道があるかどうかは分からなかったが、とりあえず喜んでおこうとお礼を言った。
きっと仕事場で着物を着るから選んでくれたのだろう。実際には自分は社員用に支給された着物以外には浴衣すら持っていない。
着物はアンサンブルでも自分には高すぎるし、浴衣は今まで来ていく機会もなかったから買わなかった。
料亭の先輩達はよく着物のおさげを年配の方達から頂いていたり、お茶やお花を習いに行くときように色々買うみたいだが自分にはお手入れが大変なように思えたし、先輩に必要なときに貸して頂ける着物だけで十分に思えた。
だから、本当はこんな簪を頂いてもめったに使い道はなかったのだけれど。
「嬉しいです。とても、奇麗」
白い包み紙の中艶やかに光る簪にほうっとため息をついた。
「喜んでもらえて良かった」
にこにこと微笑む河野様もそう言って、私の手元から簪を抜き取った。
顔をあげた私の後ろに両手を回し、髪の毛をさらりと手櫛でとかれた。
まるで抱きしめられるかのような仕草に身硬くした私をよそに、彼は器用に指先でといた髪の毛をくるりと束ねてねじり、そこに簪を滑らした。
「うん、やっぱり、似合う」
身を離した彼は頭上から私の頭に留められた簪を褒める。
それはすぐにするりと解けてしまって、私が慌てて地面に落ちそうになった簪を受け止めた。同じように受け止めようとしたらしい河野様の手が私の手ごとそれを包み込んだ。
「あ」
「はは、落ちてしまったね」
彼はそうやって何事もなかったように笑うけれど、私の内心はどきどきと脈打つ鼓動がうるさくて、顔が熱く感じられるくらい緊張していた。
河野様は私の手を握ったままそれを身体の前でそっと開いた。でも私の手の下に彼の掌はまだ残っていた。
「河野様…?」
彼を見上げたとき、目が合う。
スローモーションのように彼の顔が降りてくるのが見えた。
どうしてか避けることが頭に思い浮かばず放心したように立ち尽くしていると、唇に柔らかい感触がした。
それは軽い感触を残したまますぐに離れた。
でも河野様の顔はまだ眼前にあった。
もう一度見つめあって、自分でも知らず彼を誘うように薄く唇を開く。
すると今度は長く、深く口付けられた。
初めてではなかったけれど、慣れているわけでもない。お子様のような体験しかしたことがなくて。
こんな大人のキスは知らなかった。
何度か啄まれて、目を開けると河野様は微笑んでいた。優しい笑顔だった。
「まつり、って呼んでも良いかな?」
「…はい」
そう聞かれて熱に浮かされたままの私が頷くと、また優しく口づけられた。

貴方と私の境界線02

「こちら今朝釣り上げられた旬の鮎でございます。それから…」
給支中は話しかけられるまでは無駄口は叩かないけれど、料理の説明だけはしなければならない。話の腰を折らないように、慎重にタイミングを計って料理を出す。さすがにこの仕事について数年経っているので慣れたが、最初の頃は失敗ばかりだった。
「美味しそうだね。はなむらさんは本当に良い料理を出してくれる」
「ありがとうございます」
田川様の褒め言葉に軽く頭を下げて答える。
「池上くん、食べてみたまえ。君はここ、初めてだろう?」
美人の女性は池上様と言うらしい。頭の中でメモにとりながら、一礼して部屋を辞した。
ふぅ、とため息をつく。
4人様と聞いていたので、二対二の席を用意したのだけれど河野さんが3人相手にすることになるとは知らなかった。しかも、河野さんの隣にはあの美人の池上様が座っている。
なんとなく今晩の席の目的が分かった気がする。
きっと田川様が池上様を紹介しようとして設けたのだろう。
河野様の立場的に断れないのではないのだろうか。勿論、普通こういう場合断れる筈だ。心証は悪くなるけれど、田川様だってごり押しはしないと思う。でも、河野様はなんといっても仕事人間だし、田川様の気を損ねることなんてしなさそう。しかも、池上様はあんなに美人だし。
——あぁ。
今晩の料理はまだ半分残っているのに、これからあの部屋に戻るのに気が重くなった。


7時頃から始まった接待は9時半を回ってもお開きにはならなかった。
料理自体は2時間ほどだが話しが盛り上がったのか、お酒を追加してしばらくお部屋にいらっしゃった。廊下に控えている間、漏れ聞こえてくる会話は、やはり思った通り田川様が池上様をさりげなく河野様とくっ付けようとしているものだった。
それが聞きたくなくて庭の池に住む蛙の泣き声に注意を向けていると、突然部屋の戸が開いた。
「あっ」
こちらが静かに佇んでいたのに驚いたのか、部屋から出て来た吉田様が小さく声を上げられた。
ぼうっとしていたのを見られてしまった失態に、恥ずかしさに顔を赤くして「どうか致しましたか」と尋ねると、お手洗いの場所を聞かれた。
「ご案内致します。こちらでございます」
もう料理は終わっているのでお酒とおつまみくらいしか持て成すものはないが、念のためすれ違った手の開いてる他の中居に指先だけでサインを送る。戻ってくるまでは彼女が部屋の近くで控えてくれるのだ。高級料亭はサービスが重きを置いているので、客の目につかないところで目配せやスタッフ同士のサインなどが始終飛び交っている。
「楠木さんは、こちらで何年くらい勤めていらっしゃるんですか?」
「えっ?」
すれ違った中居が向こうの廊下に消えたとき、突然後ろから話しかけられ驚いて小さく声をあげた。それに慌てて口元を袖で押さえる。
「すみません、突拍子な質問でしたよね」
後ろから聞こえる済まなさそうな声音に慌てて、軽く振り返って返答する。
「そんなことはございません。驚いてしまって申し訳ありませんでした。私はこちらで勤め始めて早4年ほどになります」
一晩のうちに二度目の失態をおかしてしまって、穴があったら入りたくなった。
それもこれも河野さんの接待に美人な方がいらっしゃったからだ。
頭の中でぶちぶち文句を言っていると、いつのまにか吉田様が横に並んで歩いていた。
「そうなんですか。じゃぁ楠木さんは僕よりも年上なのかな。僕はまだ社会人3年目だから」
「あ、いえ、私は進学せずにこの道に入りましたので、まだまだ若輩者でございます」
「へぇ、じゃぁまだ20代前半?落ち着いているからもっと上だと思ってた」
年齢を近いと見越したせいか、吉田様は従業員と客という線引きを取り除いてしまったのか、お手洗いの道すがら世間話を始めてしまった。
うちの料亭はあまりお客様と馴れ馴れしくするのは好まないので、先輩などに見られてしまわないかと冷や冷やする。
お手洗いの前に辿り着いても、彼の口は止まらなかった。
格子戸で中庭風にセットされて明らかにお手洗いとも書いてあるのだが、その入り口に立ったまま彼は中に入ろうともしない。一応格子戸を開けて「あの、こちらが」「お手洗いは」と話しの腰を折ろうとはしてみたものの、なかなか口を挟めない。
「楠木さんは下の名前何て言うの?」
「まつりと申します」
「へぇ、可愛いね」
「恐れ入ります」
褒められたはものの、心は早く中に入ってくれと焦っていた。他のお客様にこんな風に喋っているところを見られたら店の風評にも関わってくる。
「あの、お手洗いに御用だったのでは」
やっと言えたその言葉に彼はそうだった、と今気がついたようでやっと開いていた格子戸をくぐってくれた。ほっとため息をつこうとした寸前に、突然ぱっと振り返られてぎくりと息を止めた。
「あの、帰りの道分からないから待っててくれないかな」
「勿論でございます。ごゆっくりどうぞ」
困ったように告げられた言葉に営業用の笑みを返しながら、厠の奥に入っていく後ろ姿を確認して格子戸をしめた。
今度こそふぅーとため息をつく。
今日は調子が狂いっぱなしだ。
いつもだったら吉田様のようなお客を接客用の笑みで自分のペースに持っていけるのに、何故か向こうのペースになってしまっている。
料亭はなむらの中ではそれなりの古株でも、正社員の中ではまだまだ駆け出しだ。もしもこんなところで吉田様と世間話をしているところを見られでもしたら、すぐに目をつけられてしまう。
育ちが悪いことは、努力でカバーしてきた。社長にも直々に褒めてもらえるくらい毎日一生懸命働いてきた今までを失ってしまうのは嫌だ。
実際のところ河野様と付き合っていることを知られたら即刻首だろう。
そんなに大きなリスクがあるのにどうして断らなかったのか。

貴方と私の境界線01

この人と付きあっていられるのはそう長くない。
だってこの人は私の手に余るようなすごい人だから。


大手企業で営業をしているらしい彼は、よくうちの店に来ていた。
高級老舗で有名なうちの懐石料理屋は界隈の社会人に接待場所として人気で、彼もそんなビジネスマンの中の一人だ。

私の両親は早いうちに離婚していて、母は家を出たあと連絡は取っておらず、残った父はアルコール中毒で中学生の時に死んだ。親戚が面倒を見てくれたけれど高校に行くほどお金がある家じゃなかったので迷惑をかけたくなくて、それに奨学金を受けるほどの頭もなかったので中卒のまま、いくつかのアルバイトを点々とした。
その後、たまたま雑誌に乗っていた今の店のアルバイト募集の広告を見て、運良く採用してもらえたのだった。
初めてこの店に来てから早4年。私は21歳になり、店でも頑張りが認められて今年から正社員として雇用されることになった。
アルバイトと正社員の違いは、制服として着る着物の柄もだけど、役割も変わってくる。お客様を一部屋分担当することになるのだ。旅館の中居と同じ役割だ。

「河野様、おひさしぶりでございますね」
料亭はなむらの敷地は広い。表の普通客を迎える建物は全部の一角だけで、その後ろにある個室用のお座敷がある建物は、日本庭園に囲まれた昔の屋敷を改装したものだ。
板敷きが軽くきしみを上げる廊下を先導しながら、三歩ほど後ろを歩く彼にそう言うと、彼は苦笑して頷いた。
「一週間ほど休暇を取っていてね。従兄弟が海外挙式なんてあげるものだから、ついでにと思って」
「それはようございましたね。お仕事の骨休めにもなられたでしょう」
河野様という方は、うちの料亭でもかなり頻繁に利用して下さるお客様だった。大手企業の営業をしていらっしゃるというのは、つい最近頂いた名刺から知った。
「そうだね。仕事以外で海外に行くなんて久しぶりだったよ」
目的地のお座敷につき、床に膝をつきすっと襖をあける。彼が中に入ってから、後ろから着いてきていたお手伝いの子のお盆を受け取り、自分も部屋に入って襖を閉めた。
彼は慣れた様子でいつものお席に座る。
お盆の中から暖かいおしぼりを取り彼に手渡す。それからお茶を彼の前に置いた。
手を拭いた彼が使い終わったものおしぼりを返してきたのを受け取ろうとすると、ついと手を握られた。
「まつり」
「か、河野様」
馴れ馴れしく名を呼ばれる。慌てて狼狽える彼女に彼はふっと笑って声を潜める。
「お土産があるんだ」
「困ります、仕事中は」
同じように声を潜めて彼女も返した。
薄い襖で区切られた向こうに誰がいるともしれない。接待や会合に来られるお客様のために普通の日本屋敷よりは防音してあるけれど、それでも壁は薄いのだ。
「今日の仕事が上がったら、僕の家に来てくれるかな」
「…分かりました」
仕方なく頷く私に彼はくすくすと笑う。ため息をついて彼に掴まれた手を抜くと、彼は名残惜しそうに指先を撫でて手を離した。
それから意識を切り替えて、お盆を持って部屋を出た。

河野様、ならぬ河野信夫さんとお付き合いするようになってから、もう1ヶ月ほど経ったけれど、未だに彼と触れ合うのには慣れない。
嫌というわけではないけれど、緊張してしまう。男の人と付き合うのが初めてなワケでもないのに。ただ怖い。
彼という人は、底なし沼のようだ。
惹き付けられてしまえば最後、心を許してしまえば最後、後は堕ちる一方になりそうなほど、魅力的な人。ホストに入れ込んだりストーカーになるまで誰かを好きになるなんてどこか遠くの出来事のように感じていたのに、河野様という人を見ているとまるで自分もその泥沼に足を踏み入れそうな気がしてならない。
だから私は心を凍す。入れ込みすぎないように。理性が効くように。
後戻りできなくなる前のぎりぎりのところで、この人とのお付き合いを続けなければいけない。そうすればきっと、別れの時が来ても大丈夫だから。

「楠木さん、河野様のお連れ様がお着きになられました」
「今参ります」
接待先の方がお着きになったので急いで玄関に向かった。
今日のお客様は某商社の上役の方らしい。河野さんと何回かお見えになったことがあったので、自分とも一応は顔見知りであった。
「いらっしゃいませ、田川様。河野様はお部屋でお待ちでございます。どうぞお上がり下さいませ」
屋敷は土足厳禁なので玄関で靴を脱いでもらうことになっている。そのときスーツ姿でもビール腹が目立つ壮年の田川様の後ろに、二人ほど控えているのに気がついた。
「いらっしゃいませ、こちら段差がありますのでお足下にお気をつけ下さいませ」
営業用の笑顔で対応しながらも、失礼にならないよう伏し目ながらに靴を脱ぐ二人を観察する。
一人は田川様の下で働いている吉川、いや吉田様、だっただろうか。田川様と一回りほど違っているけれど、すごく期待されているらしく田川様がよく話題にお出しになられる。一度田川様が連れてこられたことがあって、河野さんと同じくらいの年の人だったのでなんとなく覚えていた。
その横におられる方は、女性だった。
とても美人。
すらりとして、自信がにじみ出るようなプロポーションと堂々とした態度。頭も良さそうだった。河野さんと並ぶと、とても似合いそうな人だと、すぐにそう思った。

Thursday, June 25, 2009

しのやみ よわのつき07

マナと初めて会ったのは、物心ついてすぐだった気がする。
3歳になった頃だったのだろうか。当時のことは霧がかかったように曖昧で、唯一覚えているのはマナを見て何とも言えない気持ちに襲われたことだ。
そう。
あれは襲われたというのが正しいほど、突然で強烈な気持ちだった。
『こんにちは』
初めて交わした言葉はそれだけだったのに、どうしようもなく泣きたくなって、見ず知らずのはずのマナの胸に抱きついて泣いた。
当時17歳ほどだったマナは、俺が知ってる高校生の先輩くらいだったはずなのにその人たちに比べるとすごく大人だった気がする。逆に最近の方が子供らしく感じられるくらい、当時の自分には彼女は大人に、それこそ見たこともない母のように思えた。
幼い時の思い出だからすべてを覚えているわけではない。その後マナとどうなったのかも覚えていない。
ただ出会いの一場面だけが鮮烈に焼きついて残っているのだ。
あれから10年近く経った今、こうしてマナが一緒に居てくれるのはきっとレイの境遇に同情してくれているからなのだと思う。そして一度引き取ってしまったことからの責任感。
マナはレイのためなら何でもしてくれる。
一度レイに父親が居ないことに悩みに悩んで、結婚することまで考えたくらいだ。
そのときはレイが父親なんて要らないと言ったら踏みとどまってくれた。相手のことを嫌っていたわけじゃなく、むしろレイもマナも仲の良かった人だった。マナもレイが懐いているから良いと思ったのだろう。彼はマナに惚れていて、プロポーズされたときにマナも迷ったと言っていた。

マナはいつももう恋はしないと言っている。
とても大切な思い出があるから、それを消したくないのだと。
マナは多くを語らないけれど、ときたまぽつりぽつり話してくれることから伺えるのは、その思い出がとても綺麗で繊細ということ。
そして、相手のことを今も想い続けていること。
「レイちゃんもそろそろお年頃ね。素敵な人に出会えると良いわね」
そう彼女が言うたびにレイは心の中で思う。
素敵な人にはもう出会っているんだよ、と。
そう告げられたらどんなに良いだろうか。


--------


服の中で携帯電話が震えるのを感じて、マナはポケットに入れてあった真新しいシルバーの機種を取り出した。
4人で背中合わせにシェアするブースが連なる構造になっているオフィスは上司の目をそこまで気にする必要がないので彼女は気に入っていた。仕事さえやっていれば同じブースの人たちと無駄話をしていようが歌を歌っていようが何も言われない。
新着メールの表示に開くボタンを押すと、思わぬ人物からで眉間に皺が寄った。
彼から連絡が来るのはすでに習慣化しているせいか、たいていいつも週の同じ日の同じ時間にくるのだ。
だからこんな風にイレギュラーにメールを送られると何か悪いことでも起きたのか勘ぐってしまう。
しかし心配は杞憂だったのか、ただ単に今週は仕事が入ったので会えなくなったということだった。
了解、と簡潔に返事を返し、携帯電話をしまうとふっとため息をついた。
会いたくない。会いたくないと思っている筈なのに、会えなくなると寂しく思ってしまう。自分にあんなに辛く当たる人なのに。
昨日出来心でDVDなんて借りてしまった罰なのだろうか。
会えないだけでこんなに悩まされるなんて。
―--これではまるで恋をしているようだ。
そこまで思い至ったところで、思い浮かんでしまった考えを消すようにぶんぶんと首を振った。
それは断じてあり得ないのだ。

それに、彼は私のことを未だ許せていないのだから。

Wednesday, June 17, 2009

愛とはかくも難しきことかな37

宮内が貸してくれることになった一夜のお宿はなんと彼の実家だった。
元々徒歩10分くらいのところにアパートを借りて暮らしている彼はよく実家に顔を出すらしく、その夜も電話で一つ断りを入れる だけですんなりと寝床を用意してもらえた。
「これ、うちの生徒。こっちが俺の両親と姉」
軽く紹介されとりあえず失礼にならないように、よろしくお願いしますと頭を下げるとにこやかに中に迎え入れられた。とりあえず訳ありだとは説明してあったらしく、深夜に泊まらせてもらうことになった理由は特に尋ねられなかったが興味津々の面持ちではあった。
御堂の家に比べたら小さいが、それなりに大きな一軒屋の一室(元は宮内の自室だったらしい)のベッドを整えてもらって、お風呂とお姉さんの着替えまで貸してもらった後、部屋に戻ると宮内に個人面談を思い起こさせるような格好で向かいあってこれからの相談をした。
「とりあえず思ったんだがな、お前に好きな相手が居るというのをその保護者の父親に伝えるのはどうだろう」
「え、そんなの絶対聞いてもらえないよ!」
「まぁ、待て。やってみなきゃ分からないだろ」
即座に言い切った自分に宮内が宥めるように言う。
「とりあえず兄弟じゃなく、養父と話をしてみろ。そんでなるべくしおらしく見せながら、婚約の話を立ち聞きしてパニックになって家を飛び出してしまった。好きな人がいるので他の人と婚約はできない。そんな風に言うんだ。こうすれば強制は多分されないし家を飛び出た理由もつく。…昨今の常識では」
「もしも常識の通じない相手だったら」
「そんときは…家出を推奨してやる」
「わーん、宮内のばかー、解決になってないじゃないかー」
手近にあった枕を投げると彼は甘んじて顔で受け止めてくれた。
その後倍返しされたけれど。

二日続けて他人様のお世話になった次の日の朝は、よく眠れなかったせいであまりすっきりとはしていなかった。
リビングのカウチで一緒にお泊りすることになった宮内もよく眠れなかったのか、眠たそうな顔でおきだしてきた後、服を着替えるために一度アパートに戻っていった。
自分はお姉さんのお古だという可愛い洋服を貸してもらって、仕事に向かう彼女を見送った後、すでに退職してのんびりしている宮内の両親と朝ごはんを食べた。
学校の行くつもりはあまり無く、用意を終えた宮内が戻ってきたらどうしようと思考をめぐらしていたとき玄関が開いて宮内の呼ぶ声がした。
「どうしたの…って、え!」
呼ばれたままそちらに行くと思いもしなかった姿に、廊下で足を止めた。
「萌ちゃん、おはよう」
その人は昨日と同じ服装のまま、少し疲れた笑顔でそう言った。
「か、克己さん、なんでここに」
「この人、俺の家の前で一晩中待ってたみたいだぞ」
克己さんの格好を見てしまえばその言葉は疑いようがなかった。
「どうしているんですか、今日、お仕事なんじゃ」
「うん、そうなんだけどね。昨日泣かせてしまったから…」
「あ、あれは……」
そういえば昨日口論になって子供みたいに泣いてしまったのだった。しかも今思えばファミリーレストランの中で声をあげて。あ、穴があれば入りたいくらい恥ずかしい。
一人思い返して赤面していると、克己さんが玄関先から手を差し出した。
「ごめんね。泣かせるつもりはなかったんだ。ただ心配で君に家に戻ってほしかっただけで」
「も、もうその話は良いですから」
「良くないよ。君に誤解されたまま嫌われるのは僕が嫌だからね」
真摯な顔で彼に見つめられて、うろたえてしまった。あんなにも堅く御堂の家を出ることを決めたのにまた意志がぐらつく。
いつもそうだ。克己さんは本当に口が達者で演技が上手くて。
言い訳のようにそう心の中で愚痴るが、怒りが沸いてこなくて困る。かわりにあるのは期待だ。これはよろしくない。だってまた裏切られて同じ結果になるのが怖い。私は何度御堂家から家出すれば良いんだろう。

Saturday, May 30, 2009

愛とはかくも難しきことかな36

 とりあえず連絡だけは腹を括ってすることにした。
 少し冷めた頭で考えてみればお金も全部払ってもらっていたんだし、いくら酷い人達でも悪戯に逃げ出すだけではただ混乱させるだけだ。祖母の形見とかも御堂家にあるし、いつかは向き合わなければいけない日もくるかはしれないし。
 でも話して分かり合える相手なのかな。
 御堂の兄弟は皆どこか違う国の住人なのかと思えるくらい理解できないけど、御堂の父もそうなのかな。初めて会ったときはそうもおかしいと思えなかったけど、能あるタカは爪を隠すみたいな。ちょっと違うか。
 
 なんてつらつらと考えて現実逃避を試みたけど、宮内の無言のプレッシャーに逃避はできなかった。
 仕方なく、よしっ、と気合いを入れて番号をダイアルする。
 どきどきしながらコール音を待っていると、1、2回鳴ったくらいですぐに相手が出た。
『もしもし?御堂でございます』
「………っ」
 予想していなかったトメさんの声に、電話口で咄嗟に声を潜めてしまった。
 大体夜の8時過ぎには家に帰ってしまうのに。
 どうしよう。何て言おう。御堂の父に代わって下さい?あぁ、でも掛けてしまうとやっぱりいざとなったら何を言えば良いのか分からない。
『もしもし?……』
 沈黙していると訝しげなトメさんの声の後、突然電話の向こうでゴソゴソと動く音が聞こえ、誰か違う人が電話口に出た。
『萌?』
 優成さんの声がした。
『萌だろう?今何処に居るんだ?』
「優成さん……」
『良かった、無事だったんだな』
 御堂の父でも克巳さんでも双子でもなかったから、言葉がするりと出た。
「わたし、もう御堂の家には帰りません」
『萌、ちょっと待て。出ていった方が良いって言ったのはお前のためを思ってだったけど、こんな風に』
「違うんです。優成さんのせいじゃないんです。私、もう無理です。御堂みたいな家でやってくのは」
『萌、とりあえず一旦こっちに帰ってきて話そう。もう遅いし、みんな心配してるし。迎えをやるから、な?』
「嫌です。帰りたくないです。嫌です……」
『萌…あ、兄さんっ』
 嫌だ嫌だと繰り返し言っていると、優成さんの慌てるような声と電話口の人の気配が入れ替わる。
『萌ちゃん?』
 克巳さんの声にびくりと身体が震えた。
『どこに居るの?』
 彼の声は怒っていた。双子を殴った時のように、声は荒くないのに含まれた怒りに萎縮してしまうような、そんな声だった。彼が自分に向かって怒っているのは初めてだった。
『言えないのなら、捜索願を出すよ。うちの家が本気になったら、人一人探し当てるのはそんなに難しくないんだよ。大事になる前に帰ってきた方が良いよ』
 ——兄さん、そんな言い方は……、と克巳さんの後ろで優成さんの嗜める声がする。
『未成年がこんな時間に外に居るのが駄目なことは萌ちゃんも知ってるよね。危ない事件に巻き込まれる前に一度戻っておいで』
「だって、戻ったら、克巳さんたち、また虐める」
『僕が君を虐めたことがある?』
「いつも意地悪く笑っていたじゃない、嘘つき!」
『萌ちゃん…』
「私、御堂の家の道具になんてなりませんから!婚約なんて絶対しませんから!」
『婚約?もしかして、あの話聞いてた……』
「御堂の家なんて大嫌い!克巳さんの馬鹿!ふぇ、うぁああん!」
 途中泣き出してしまった自分の手元から宮内が携帯電話を取り上げ、彼の耳にあてた。
「すみません、洀英学院で養護教諭をしている宮内と申しますけど……」
 泣き顔のまま宮内を見ると、大丈夫だとでも言うように彼は笑って電話口の向こうと話しだした。
「えぇ、今晩はうちの実家に泊めさせますから。…はい、えぇ…はい」
 テーブルに置いあったナプキンで目元と鼻を拭っていると、宮内は大体話しがついたようで、電話番号を交換して電話を切った。
「よし、とりあえず今晩はこれでお前も落ち着いて寝れるな」
「び、びやうぢ〜〜」
 せっかく奇麗にした顔はまた号泣したせいですぐにぐちゃぐちゃに戻ってしまった。

Thursday, May 28, 2009

しのやみ よわのつき06

 マナは基本的に7時半過ぎに仕事場を出て8時前に家につく。外資系証券銀行のアナリストは朝が早く帰宅も遅いが、給料は文句なく良いし福利厚生などの手当も良い。
 レイと過ごす時間は多少減るけれど、週末の残業は少ないので休日しっかり時間を取れる分普通の仕事よりも良いかとも思ったりしている。

「ただいまー」
 都心にほど近いデザイナーズマンションの一室にある我が家に辿り着くと、すぐにレイが玄関に顔を出した。
「おかえり、ご飯できてるよ」
「ありがとー。いつもゴメンね」
「好きでやってるんだから気にしないで」
 ちゅ、とマナの頭に唇を寄せると、マナはぼっと顔を赤くさせた。
「もうっレイちゃん、ここは日本なんだからそういうスキンシップは」
「はいはい、分かってますよ〜。それよりご飯にする?それともお風呂?」
 いつも通りレイを諌めようとするマナを軽く流して、冗談めかしてそう言う。可愛らしく見えるように上目遣いもつけて彼女を見つめると、マナは額を押さえてはぁーと大きくため息をついた。
「レイちゃんの将来が心配だわ。すっごいタラシになりそう」
「はははっ、俺は一途だから好きな子だけにしかこういうことはしないよ」
「本当かしら」
 踵の低いパンプスを脱ぎながらマナは玄関から上がる。
 美味しそうな晩ご飯の香りにお腹の虫を鳴らしながらリビングに入って、通勤鞄をソファに置いた。それから手を洗うために洗面所に行く。
 レイはその間にダイニングで晩ご飯の用意をする。
「マナ、今週末の予定は?」
 ついでにコンタクトも外したのか、メガネ姿になって戻ってきたマナにレイは訪ねた。
「ん、いつも通り家の片付けかしら。あぁ、そうそう」
 思い出したようにソファの上の通勤鞄に手を入れる。
 中から出てきたのは青いよく見かけるレンタルビデオ屋の袋だった。
 ダイニングのセットをし終えたレイは興味を引かれたようでソファまでDVDを見にやってきた。
「何?映画のDVD?」
「ううん、ドラマなの。久しぶりにどうかと思って」
「ふーん、数年前の?名前は聞いたことあるけど」
 何年か前に大ヒットしたそれは何回か再放送されていて、レイも名前だけは聞いたことがあった。ただテレビの放送時間が合わなくて、わざわざDVDを借りてまで見ようとは思わなかったので今まで見たことはなかった。
「ご飯の後で良かったら一緒に見よう」
「うん。あーお腹空いたよぅ。きゃーハンバーグだぁー美味しそう」
 レイが用意する食事の大半に大げさに美味しそうと騒ぎ立てるマナだったが、レイもまんざらではなくゆるみそうになる顔を誤摩化しながら席についた。

 食後にマナは紅茶を入れ、リビングのソファにレイと並んで座ってDVDを観た。内容は恋愛物で、一途に男のことを想う高校生の純愛を描いている物だった。
「うわ、この俳優、あの吉嶺聡?若いなー」
「あたしと同い年だからね、この頃18歳だったかしら?」
「このドラマで人気出たんだろ」
「そうね、一躍時の人になったわ」
 そう言ってマナは懐かしそうに画面を眺める。
 ドラマのストーリーの内容よりも、ドラマその物を懐かしがっている感じだ。それにレイは違和感を抱いてふと尋ねる。
「マナはこの頃日本に居たの?」
「いいえ、でもたびたび帰ってきていたから」
「ふぅん?」

Tuesday, May 19, 2009

しのやみ よわのつき05

 深夜寝静まった寝室の扉が静かに開いた。
「マナ…、起きてる?」
 密やかな声がかかるが、それに返事はなかった。
 レイにとってはその方が都合が良い。音を立てないように忍び足で寝室に忍び込むと、ベッドの傍まで寄る。
「マナ……」

 朝も昼も好きなだけ触れられるけれど、それは子供のフリをしているからだ。
 自分が大人になっていくのを自覚するのと共に、彼女の瞳に小さな脅えが見えるようになった。

「マナ……」
 軽く唇に触れる。

 小さな頃は甘えるレイに軽く愛情のキスを落としてくれたのに、最近はもうそれもない。確かに海外で過ごした幼少時代に比べて、レイも大きくなったし日本でそんなことをする家族はいないけれど。
 しかし理由は文化の違いとかそんな単純なものではなくて、マナがそれをすることに罪悪感を感じるようになったからだ。
 それまで時々一緒に入っていた風呂をレイが嫌がるようになったのは、裸のマナを前に平常を保てないことに気づいたからだった。   じゃぁマナがレイに愛情を示すキスをしなくなったのは何故だろう。

 彼女の頬を軽く撫でていると彼女の瞼が小さく震えた。
「……ん」
 唇から小さな声が漏れる。
 起きるのかと身構えた彼の予想に反して、マナは起きなかった。
 しかし目を閉じたまま魘されるかのように軽く眉間に皺を寄せて、苦しそうな表情になった。
「……い……」
 何かを呟く様子にレイが耳を寄せると、「ごめんなさい」という言葉が何度も何度も繰り返される。
「ごめ……、許して……」
「大丈夫だよ、マナ。俺がいるから」
「レイ、ちゃ」
「そうだよ、俺だよ」
 悪夢に魘されているらしいマナをあやすように手を握ると彼女が目を薄らと開いた。寝ぼけているようだが、レイの存在を認めて懺悔するようにぎゅっと彼の手を握りしめて泣き出した。
「あ、ごめ……ごめ、ん。あたしの、せい。許して、おねが……あたしが……」
「許すよ、大丈夫。マナ、愛してるよ」
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
「大丈夫。目を閉じて、眠って」
 彼女をあやしながら寝かしつけると、数分もせずに彼女はまた眠りに落ちた。元々寝ぼけていただけらしい。
 
 こんな風にマナが謝罪を繰り返して魘されることはよくある。
 彼女が自分に対して感じる罪悪感が、時たまこうして悪夢になって彼女を苦しめるらしい。 
 大事に思うのと同じだけ、こうして魘される彼女に満足している自分がいる。
 こうやって罪悪感にがんじがらめにされればされるだけ、彼女が自分の方を向いてくれる。
 マナが罪悪感を抱える過去のことなどレイにとってはどうでも良かった。マナが自分と居てくれる理由。それだけが必要なのだから。

 形の良い額に軽く口づけを落とすと、レイは立ち上がって音を立てずに部屋を出て自室に戻った。

Saturday, May 16, 2009

しのやみ よわのつき04

 ホテルを出たところでタクシーを拾い、急いで帰ってきたマナはリビングのソファで寝転がっているレイを見つけてほっと息をついた。
「おかえり」
「大丈夫?気分は?」
 心配は杞憂だったのかレイは平然としておやつに置いておいたプリンを食べている。額を合わせても特に熱もなさそうだ。
「ごめんね。テレビ見てたら直っちゃったよ」
 ソファの横に座り込んだマナの髪は急いでいたせいかぼさぼさになっており、レイは申し訳なさそうにそれを指で梳いて直してやった。
「ううん、いいの。ビックリしたけど、レイちゃんが元気なら」
「仕事は良かったの?」
「うん、もう終わってたから」
 さらさらの髪の毛を触りながら聞くレイに、マナはさらりと嘘をついた。
 その時レイはふと髪の毛を鼻先に寄せた。
「煙草の匂いがする」
「え」
 くんくん、と彼女の首筋に顔を寄せ、匂いを嗅ぐとすぐに身体を押しやられた。
「し、仕事の後に、同僚とちょっと休憩してたから、その時についたのかも」
「ふぅん。その人、男?」
「え、あ、女、の人、よ。ど、どうして?」
 今まで残業のことについて聞かれることは無かったのに、突然追求されてどぎまぎと答えに詰まっていると、レイは胡乱げな目をした。
「ふうん?」
「あ、ほら、レイちゃんドラマ見ていたんでしょう?」
 まずい、と咄嗟にマナはテレビを指差した。
 今話題のドラマでレイも好きなのか、マナが火曜の10時過ぎに帰ってくると大抵それを見ていた。だから彼も注意がそれると思ったのだけど。
「…まぁ、いいけど」
「あ、あのどんなドラマなのかしら、これ」
 仕方ないから誤摩化されてやる、とでも言いたげなレイにマナは必死に場を繕おうとドラマの話題をふった。
「中学時代に女の子に惚れていた男が、大きくなって再会して、また恋に落ちる話。だけど、どっちかっていうと男が執念深く女の子の方を追いかけてる話」
「一途ってことね。素敵じゃない」
「主演が吉嶺聡だから許せるだけで、ブサイクがやったらストーカーだよ」
 解釈の仕方は人それぞれだけどね、とレイがマナを呆れた顔で見ると、彼女はテレビに映る主人公の男と女のやり取りをぼんやりと見つめていた。

Monday, May 11, 2009

しのやみ よわのつき03

 10時過ぎ。
 けだるげな空気の中、マナは身体を起こして、地面に散乱した自分の荷物の中から携帯を拾い上げた。最中に携帯の着信音を聞いたような、そんな気がしたのを思い出したのだ。
『頭痛い。風邪ひいたみたい。早く帰ってきて。マナがいないと寂しい』
 15分ほど前に届いたメッセージ。
 送信者は勿論この世で一番大切なあの子。
 それを読んで顔色を変えた彼女はすぐさま機敏に服を身につけだした。
「どこ行くんだ」
 ヘッドボードに身体を持たせながら煙草を吸っていた男が、マナの慌ただしい着替えを眺めながら尋ねる。
「帰る。レイちゃんが頭痛いって……っ!ちょっと」
 脇目を振らず、部屋を出ていこうとする彼女の腕を、掴んで引き寄せた。
 文句を言おうとする彼女の唇に口づけて黙らせる。
 最初は抵抗していた彼女も諦めたのかしばらくすると大人しく彼に凭れながらその時間が過ぎるのを待った。
 愛しい人に触れるように彼の大きな手がマナの頭の後ろを撫でる。
 それに心地よさを感じたとき、突然その手がマナの長い髪をつかんだ。
「いっ」
 突然のことにちいさく悲鳴をあげた彼女は、至近距離に迫った相手の男を睨みつけた。しかし相手の男は口に小さい笑みを浮かべるだけ。
 マナだって理解はしている。二人の間の上下関係を。
「忘れてないだろうな?」
「忘れてなんか、ないわ。私はもう誰も好きにならないし、レイちゃんをちゃんとした大人に育てあげることだけが、目標なの」
 いつも通りの答えを言うと、男は満足したのかふっと煙草の煙をマナに吹きかけると興味を無くしたように、ベッドヘッドに身体を預けてくつろぎだした。
 まともに煙草の煙を吸い込んだマナは咳き込みながらも、立ち上がる。恨めしそうに睨みつけても相手はどこ吹く風だ。
「煙草、身体によくないわよ」
「ふん」
 彼女が出ていって、扉が静かに閉まったところで、男は突然乱暴に傍に転がっていた枕を拳で叩いた。
「くそっ」
 男の端正な顔がゆがんで悔しそうな表情に変わる。
「何年たっても邪魔しやがって…」
 さきほどまでの余裕はもうなかった。
 苛々と吸っていた煙草を灰皿で消すとシャワーを浴びるためにベッドから降りる。
 彼女が居ないのならばこんなところでゆっくりする理由がなかった。

Sunday, May 10, 2009

しのやみ よわのつき02

 朝の6時。
 隣の部屋から聞こえてくる目覚まし時計の音で目を覚ます。

 しばらく微睡んでいると、腹の虫をうるさくさせる香ばしい朝食の香りが漂ってくる。
 頃合いを見計らって起き上がり、洗面所で顔を洗う。
 さりげなく寝癖だけを確認したあと、わざと寝起きのように怠そうに足音を立て、ダイニングに顔を出した。

 見慣れた背中。湿ったままの髪が後ろで緩く纏められている。
 その後ろ姿がどれだけ自分を欲情させているか、この人は多分分かっていない。

「おはよう、マナ」

 変声期途中の掠れた声が出る。

「おはよう」

 彼女が振り向く前に後ろから抱きついた。
 首もとに顔を埋めると、石けんの良い香りがする。
 ドクンと高鳴る胸を誤摩化すようにその頬に口づけた。

 俺の大切な人。
 俺の唯一の家族で、母親。

 でも、母と呼んだことはない。
 呼ぶ必要もないし。
 この人と俺を結ぶ絆は愛情だけだ。

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「珍しいな、お前が家に帰らないなんて」
 最近流行の若者向けの安いイタリアンのチェーン店で前に座った悪友が口を開く。
 時間は8時を回ったばかり。先ほどまで二人で繁華街をブラブラうろついていた。
「今日はマナが遅いから」
「あぁ、なるほど」
 複雑な家庭事情をおおまかに知っている友は納得した風に頷いた。
「何か大事な用事なのか?マナさん」
「いや。この日は大体毎週残業してる」
「えー、でもお前いつもは家帰ってるじゃん」
「なんか今日は夕方遅くなるって連絡入ってたから」
「ふーん?」
 首を傾げる相手を横目に口を潤すためにドリンクバー用のジュースが入ったグラスを持ち上げる。
「もしかして男だったりして」
「やっぱり、毎週残業ってそういうことなのかな」
 レイが下を向いてため息をついた。
 悪友は「マザコン」と言ってけらけら笑う。
 でもレイにとっては笑い事ではない。
 もしもマナが本当に男と会っているのなら、阻止しなければ。
 きっとレイが強く言えば、彼女はもう残業しなくなる。
 ただ生活を支えているのはマナだから彼女の仕事を煩わせない程度に、賢く動かなければ。
「おい、お前、変なこと考えてないだろうな」
「え?なにが?」
「いや………レイのことだから、普通にマナさんの邪魔しそうだなって」
「あはは、まさか。いくら俺でもマナの邪魔なんかしないよ」
 邪魔。
 邪魔なのは俺とマナの間に割り込んでくる奴だ。
 誰であろうと許さない。この日常を壊そうとする人間は。

Saturday, May 9, 2009

しのやみ よわのつき01

 女の人生の中で一番大切な物ってなんだろう。

 恋すること?美しくなること?幸せな結婚をすること?
 それとも最近の女性なら仕事で成功することと答えるだろうか?


 私には自分だけの確固たる信念に基づいた幸せの概念がある。
 そして、それは他人と似通っているようで相容れない、道徳に外れたどこか間違ったものであるのも理解している。

 それでも私はその"幸せ"を手に入れた。
 努力と歳月をかけてやっと叶えた。


 だけど、最近、分からなくなることがたまにある。
 自分がしているのは、一体何なんだろうか、と。
 最初に信念だと思っていたものが、今になって、自分のしていることへの言い訳にしか聞こえない。


 一体、どこで間違ってしまったのだろうか。
 あの頃の、焦がれるような情熱は、どこへ消えてしまったのだろう。
 いや情熱はある。
 今も変わらず。

 でも、苦しい。

 罪の重さに、私はいつか負けてしまうだろうか。

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 朝6時。アラームの音で目を覚まし、シャワーを浴び、キッチンに立つ。
 昨晩セットしておいた炊飯器から炊きたての白米を弁当箱につめる。その後仕込んでおいたおかずを調理していき出来上がった順番にまた弁当箱のスペースを埋めて行く。
 最後にソーセージと卵を焼き、簡単に作ったサラダをそえた皿に移し、同じタイミングで出来上がったトーストにバターを塗り一緒に乗せた。

 廊下からスリッパを引きずる足音が聞こえた頃、ダイニングのセットも完了していた。

「おはよう、マナ」

 声変わりを向かえたばかりの掠れた声が、背中に響く。
 変わらない、幸せの風景。

「おはよう」

 振り向く前に、腰あたりにまだ細く成長途中の腕がまわされた。
 いつのまにか追いつかれた身長。目線の高さはほとんど一緒。
 頬に落とされる口づけも、もう背伸びを必要としないだろう。

 いつまで続いてくれるのだろうか。
 この偽りの時間。


 私には一人息子がいる。
 今年中学1年になった彼はレイという。27の自分の息子というにはムリがあるので世間体では弟扱いになっている。
 しかし戸籍にはきちんと自分の子として登録してある。
 成人してすぐに養子にしたのだ。

「マナ、今日は遅い?」

「あー…、うん、多分」
 ちらりと仰ぎ見たデジタル時計は、日付のとなりにTueと曜日を映し出している。
 火曜は、毎週マナがいつもより遅く残業して帰る日だ。
「そっか。俺今日は部活がないから早く帰るんだけどな」
 残念そうに言うレイにマナは申し訳無さそうな表情を浮かべるのを見て、彼は慌てて笑みを作る。
「いいんだ、別に、夕飯なら友達と食べに行くから気にしないで」
「そう…ごめんね、なるべく早く帰るようにするから」
「本当に気にしなくていいから。養ってもらってる身で我が侭なんか言えないよ」
 首をすくめながら冗談めかしたレイに、マナはぱっと表情を強張らせた。
「養ってるとか、そういう負い目は—」
「うん、分かってる」
 硬い声で口を開く彼女の手をぎゅっと握ってレイは言った。
「分かってるから。ね、マナ」
 優しい声で、彼女を諭すように語りかける。
「俺はあなたの息子だから」
 愛しさを込めた眼差しでマナの視線を受け止める。
「だからマナが俺の面倒見てくれるのは当たり前のことなんでしょ」
「うん」
「俺はね、マナがこれからもずっと一緒に居てくれるのなら、1日くらい離ればなれになるのは構わないんだからね」
「うん」
「だから、一生俺を捨てないでね」
「うん」
「ずっと二人で居ようね」
「うん」
 いつのまにかマナの手よりも大きくなったレイの掌が頭をぽんぽんと撫でてくれる。
「俺はマナが大好きだよ」
「うん、私も大好き。レイちゃんが一番大切。レイちゃんをこの世界で一番愛してる」
「俺もだよ。マナだけいればいい」
 ずっと昔から変わらないやり取り。
 毎日続く、まるで呪詛のような言葉の羅列。

—レイちゃん、愛してる。

—マナだけがいればいい。

 まるで催眠術にかかるように、頭の中がそれだけで埋め尽くされる。

 そう。レイちゃんの居るこの世界に意味がある。

 そのことを確認しながら、マナはほっと息を吐いた。

愛とはかくも難しきことかな 閑話5

 渡辺明代が信じた男は、御堂ほどではないがそれなりの家柄で、御堂の家で育ったせいかあか抜けていた明代に目をつけた。しかし結婚する気などは元からなかった。
 明代がその事に気がついた頃には腹に子供を授かっており、相手はすでに誰か他の女性と結婚をしていた。彼女は本当のことは言えず、結婚後も愛人関係を続けたいと言う彼の前から姿を消すことを決心した。同じ頃に母の珠子も亡くし、傷心のまま子を産んだ明代は、産後に体力が回復するとそのまま全てを忘れられるように遠くに引っ越した。
「父さんは今までずっと萌ちゃんの祖母にあたる明代さんと交流が続いていたんですか?」
「いや、明代さん達はこの街を去ってしまったし、疎遠にはなっていたんだけどね。数年前に、明代さんから何十年かぶりに祖父に連絡が入ったんだよ。自分に何かあったら孫を頼む、と」
「どうして萌ちゃんの父方に頼まなかったんだろう?」
「当時の詳しいことはよく分からないけれど、頼めそうな人はいなかったんだと思う。実際明代さんが死んだ時に弁護士から聞いた話では、萌ちゃんの父方の親族で連絡の着く人はいなかったらしいし。それに、僕のところなら金銭面で負担になることはないだろうから彼女の将来の心配もなかったんだと思う」
「なるほどね」
 確かに御堂の家なら子供を一人引き取ったところで、金銭的枷にはならない。萌ちゃんが気負わなくても十分なほどに面倒を見てあげられるだろう。
「祖父と一緒に会ったとき頭を下げて言われたんだ。家族になってやってくれって。萌は、親の記憶もほとんど無く、兄弟も親戚も居なくて可哀想だと」
——自分には御堂家があったけれど、萌には自分以外誰も居ない。だから、どうか家族になってやってくれないか。
「それは明代さんの娘家族が事故にあったとき、萌ちゃんが両親を亡くしたときのすぐ後だった。僕も祖父も引き取ることに関しては異論なかったから、もしもの時は頼って欲しいと返事した」
 それから十数年。明代さんも早いうちにこの世を去ることになった。まるでその時のことを予測していたかのように、入院する直前に明代さんは御堂を訪ねていた。
 隠居をしてしまった祖父を呼び寄せようかと訪ねると、ちょっと寄っただけだからと朗らかに彼女は笑った。
 ただ十数年前の約束はまだ有効かと。
 勿論だと頷く僕を見て、嬉しそうに手を握ると「お願いだよ」と言って去っていった。その一月後に彼女の訃報が入ったのは。
「僕は明代さんの『家族になってやってほしい』という願いを叶えてあげたかった。僕の父も同じ気持ちだったし、御堂で引き取ることにまったく依存はなかった」
 最初は隠居した祖父が一人だったために萌ちゃんを引き取ると申し出たが、明代さんの望みを叶えてあげるためにも、そして長く続いた渡辺の母子との確執のためにも、萌ちゃんを自分の娘にするのが父は一番だと思った。
 曾祖父と珠子さんが出会いさえしなければ、渡辺に産まれた彼女達ももっと普通に人生を送っていたかもしれなかった。
 一種の呪いのように渡辺家には女児が、御堂には男児が生まれ続いたのも何かの運命かもしれないとさえ思った。萌ちゃんが、御堂の家に入れば、欠けていたピースがはまるような。そんな思いすらした。
「気兼ねさせないように本当の父親のフリをすることにした。彼女は実の両親の記憶はほとんど無いと明代さんから聞いたから、僕を本当の父親だと思ってくれるのが一番御堂の馴染み易いと思ったんだ。でもなぁ…、渡辺の姓で居たいと言われて。DNA鑑定も念のために偽造しておいたのに、御堂の養子になる気はないらしくて…」
 父は悲しそうに肩を降ろした後、ハッと何かに気がついたように顔をあげてこちらを見た。
「克巳、お前なら萌ちゃんを説得できる!」
「はぁ?」
「うんうん、お前が優しいお兄ちゃんになれば、萌ちゃんが本当の家族になりたいとすら思ってくれるかもしれない」
「えぇ、嫌ですよ。面倒くさい」
 日本人形のような顔の萌ちゃんを思い浮かべてみる。清楚な印象が強く、マナーも一通り覚えているし、御堂に入っても見劣りのしなさそうな逸材だ。
 しかしあの冷たそうな顔の子を可愛がる自分を想像できない。
 構うと逆に嫌がられそうな、敢えていえば女版優成のような子じゃないか。
「まぁ、優しいお兄ちゃんは何だが、可哀想な彼女のことも考えて早く家に馴染むように気にかけてやってくれ」
「そうですね。まぁ、同情はしますし、それくらいなら」
 突然我が家に妹が増えた謎も解けたし、まぁ少し話しかけるくらいならしてあげよう。
 ふと脳裏に勘違いをした双子達の顔が浮かぶ。彼らに早いところ真実を教えてやった方が良いかもしれない。
しかし放っておくのも面白いような気もするが。
「父さん、この話は弟達にも教えてやって良いのかな?」
「いや。敵を欺くなら味方からと言うし、優成達には本当の妹だと信じ込ませておこう」
「そうですか」
 明らかに信じていない3人のことは伝えずに、ほくそ笑みながら父の書斎を後にした。これからおもしろいことになりそうだ。

Monday, May 4, 2009

愛とはかくも難しきことかな 閑話4

 時は遡ること3代前の御堂の当主、克巳の曾祖父の時代。
 厳格で知られていた彼にも一つだけ誰にも知られてはいけない秘密があった。
 それは女中の渡辺珠子と関係があったことだ。政略結婚の末に嫁いで来た嫁に文句はなかったが、若々しく純粋だった10歳年下の珠子に彼はどんどん嵌って行った。そして、珠子も皆が敬う当主に愛され愛人として隠れた関係を築いていても幸せだった。
 その末にできた一子。戦乱の最中だったのを良いことに恋人とは生き別れたと誤摩化し、珠子は可愛い女の子を生んだ。
 それが萌の祖母の明代だった。
 戦争で恋人と生き別れたと嘘をついた珠子に周りは同情的だった。珠子は娘を育てながら住み込み女中として働くことを許され、明代も同じように御堂家で母を助けながらすくすくと育った。
 男兄弟にばかり恵まれた御堂家で明代は皆の娘のように妹のように可愛がられた。勿論、御堂の当主にとっては本当の娘だったためにその可愛がりようは群を抜いたのもので、周りがいぶかしがるほどだった。
 明代が14の年に、当主に孫ができた。
 珠子は御堂の家を仕切る女中頭になり、明代はまだまだ若かったが病気がちだった若奥様の手伝いを仰せつかり当主の孫の目付役になった。
 この孫が今の御堂の当主である、御堂秀美である。

「つまり、萌ちゃんは僕たちの親族、大体またいとこ当たりにあたると?」
「うん。そうなんだ。あのDNA鑑定は、実際は僕の祖父と明代さんのものだ」
 父は革張りのオフィスチェアに深く腰掛け、さきほどのフォルダの中から古びた手紙を一枚出した。
「祖父は死ぬときに、父に秘密裏に遺言書を残した。渡辺の母子のために」
「それまで誰も二人の関係に気づかなかったんですか?」
「多分、祖母は気づいていたんだと思う。僕はあまり詳しく覚えていないけれど、祖父が死んですぐに彼女達は御堂の家から解雇されている。父は僕を連れて彼女達の長屋を時々訪ねて様子を見たり金銭面の援助を申し出たりした。特に母子で身よりのいないのは、当時はあまり良い目で見られなかったから」
「父さん達はえらく彼女達に好意的だったんですね」
「うーん。確かに祖父の妾とその娘、というのは御堂の汚点だとは思ったけど、僕の父は元々妹のように明代さんのことを可愛がっていたわけだしね。僕はしがらみを知らなかった頃はただたんに一緒に遊んでくれるお姉さんくらいの印象しかなかったし」
 軽く笑っていう父は本当にそう思っているのか、当時を思い返して懐かしそうな目をした。
「明代さんはしっかりした人でね、祖父を亡くし御堂に居場所を無くして消沈していた珠子さんを支えながら頑張っていたよ。なのに悪い男に引っかかって、珠子さんみたいに片親の母になってしまって…」

Saturday, May 2, 2009

愛とはかくも難しきことかな35

 運ばれてきた料理をもくもくと食べている前で宮内は私が説明した話しを頭の中で整理しているのか顎に手を当てて考え込んでいる。
「えーと…、まず血が繋がっていると説明されて御堂の家に世話になるようになったと。それから妾腹だと兄弟に虐められるようになった。行く宛も特にないから多少は我慢していたけれど、兄弟の一人に真剣に家を出ろと諭された。その後政略結婚のために引き取られたと知って逃げ出して来たんだな」
 こくんと頷くと、宮内はうーんと唸った。
「今どき政略結婚とか…」
「でもこの耳で聞いたもん」
 それがなければ御堂の家から怖くなって逃げ出すこともしなかった。今から考えると優成さんはそういう意味で出ていけと言ってくれたのかな。だったら彼のことを悪く思ってしまって悪かったな。
「しかしなぁ、最初に引き取られたときに養子の話しをして断ったんだろ?」
「確かに養子に入るのは断ったけど、今考えると御堂の父…御堂さんはかなり拘っていた気がする。きっと最初から政略結婚させるつもりで娘にしようとしてたんだよ」
「でも4人も息子がいるんだし、わざわざ他人を引き取らなくても」
「相手先に息子しかいないとか」
 納得できないのか彼は辻褄が合わないといって、うーんと唸ってまた考え込んでしまった。
 辻褄が合おうが合わなかろうがもうどうでも良いのだ。御堂の家なんてもう帰りたくない。
 ハンバーグセットを満喫して、残ったメロンソーダも飲み干した。満腹だ。
 これからどうしよう。
 空いていたお腹もいっぱいになったし、後は今晩の寝床と今後のお金なんだけど。考え込んでいる宮内を横目に、逃げる算段を考える。トイレに行くと言って普通に逃げ出せそうだけど、そうするとすぐに御堂家に連絡が言って、この近隣に人が派遣されてすぐに見つかってしまうかも。
 そんなことを思っていると、宮内がおもむろに携帯電話を取り出した。
 番号をダイヤルしようとしている彼の手元から慌ててそれを奪い取ると、彼を睨んだ。
「誰に連絡しようとしてるの」
「お、おい、誤解するなよ。電話じゃない、メールだ。友達と飲みに行く約束をしてたのがいけなくなったって、言おうと思っただけだ。大体、俺は御堂の家の番号なんか知らない」
 確かに偶然会っただけの保険教諭の携帯に御堂家の番号が登録されていたらおかしいけれど。
「信用できない」
 学校の同僚に番号を聞くことだってできるし、もしかしたら宮内には最初から御堂から連絡が入ってたのかもしれない。
 疑いの目で見つめると、彼は疲れたようにため息をついた。
「お前な、これからどうするつもりなんだ」
「…」
「逃げたって一時のことなんだぞ。さっきみたいな相手に捕まらないと限らないだろ」
「だって、帰りたくないもん。あんなところ一生帰りたくないもん」
 あんなところ、と思い出すとまた涙が目元に溜まる。それを見てがりがりと頭をかいた宮内は、お手上げとでも言いたそうに天井を見上げた。
「…仕方ない、今晩は俺の知り合いのところに泊めてやる」
「ほんとっ?!」
「ただし」
 宿をゲットしたと思ってぱっと顔をあげたところに、ずいっと人差し指が持っていた携帯を指差した。
「家に一報入れて、外泊することを許してもらえ」
「えぇっ、やだよ」
「駄目だ。でなきゃ、泊められん。今すぐお前を無理矢理にでも交番に連れて行って、学校に連絡いれて、家族に迎えに来てもらう」
 いつもは軽口ばかり叩く宮内がいやに真剣にそう脅すものだから、ついこくりと同意した。
 途端によし、と元の雰囲気に戻った彼に、ほっとすると、緊張していたのをほぐすようにこちらの髪の毛をぐしゃぐしゃと掻き乱してきた。
「心配すんな。なんとかしてやるから」
「…うん。………でも電話しなきゃ駄目?」
「駄目。絶対。でないと俺が誘拐犯にされる」
 即答で返されてがっくりと肩を落とした。
 御堂の家の人と喋ること自体嫌なのに、どうやってあんなに話しずらい人達を説得しろと。克巳さんなんかが出たら絶対にこっちが言い包められるに決まってる。

Friday, May 1, 2009

愛とはかくも難しきことかな 閑話3

 別に彼女が婚約者候補だとは思わないけれど、ただの一般人を父が引き取るとも思えずに、その夜遅く父の書斎に行った。
 父の部屋と自分の部屋は増築した離れにある。といっても、自分の部屋には最低限の家具しかおいていない。さすがに20代も後半に差し掛かると自分のマンションも持っている。ただ実家にいるとトメさんのご飯が美味しいし、一人で広いマンションに居るよりも楽なのだ。勿論大学時代は一人暮らしを満喫したこともあったが、最近は逆に家の方が居心地が良いのでよく寝泊まりに使っているくらいだ。
「父さん、ちょっと良いですか?」
「ん?どうしたんだ」
 何かの手紙を見つめていた父は、さりげなくそれをこちらの目から隠すように近くのフォルダに閉まった。
「あの子、一体どういうことなのか聞いても?突然引き取ってきた上に、本当の妹扱いしろなんて納得がいかないんですけど」
「まぁ、そうだよな」
 隠された手紙が気になりつつも、とりあえず聞きたかったことを聞いた。
 短期間だったがとりあえず書庫で家系図を調べてみたが、本家筋は勿論のこと遠縁にすら渡辺という名字はなかった。会社の社員名簿で過去から現在のデータを調べてみても、萌ちゃんに関係のありそうなそれらしい人間はいない。
 これで答えてもらえなければ、私立探偵でも雇おうかと思っていたのだが——だって気になるじゃないか——予想に反して父はあっさりと降参した。
「これ、見てくれないか」
「?なんですか」
 さきほど父が何かの手紙を隠したフォルダを手渡され、中を開くと思わぬ書類が収められていた。
「DNA鑑定書?これ、父さんが父親になってますけど」
「うん。偽物なんだ、それ」
「はぁ?!」
 DNA鑑定を偽造するのは犯罪ではないか。一体何を考えているのだ。これが世間にバレたら御堂のネームバリューが一瞬で塵になってしまう。警察沙汰だ。
「父さん、一体何を血迷って」
「うーん、どこから説明したら良いものやら」
「最初から全部説明して下さい。でないと納得できません」
「それがなかなか難しいことなんだが…。仕方ないな、お前は長男だし、知っておく義務はあるかもしれない。…本当は僕の代で忘れ去られる筈の、御堂の過去の汚点なんだが…」

Thursday, April 30, 2009

愛とはかくも難しきことかな34

24時間営業のファミレスに入ると、宮内は何でも頼んでもいいぞと言った。一番お腹に溜まりそうなハンバーグセットとメロンソーダを頼むと、ぷっと笑われた。
「お子様メニューじゃねぇか」
「でも大人サイズだもん」
べー、と舌を出して応酬すると、彼は何故かツボに入ったのか肩を振るわせて笑っている。しばらくそうして一通り笑い終えた後、彼は咳払いをして、真面目な表情に戻った。
「で、何があったんだ?」
「…言わなきゃ駄目?」
「あのな、16歳の高校生が、ホテル街でウロウロしているのを捕まえた可哀想な保健の先生の気持ちになってくれ」
「見逃せば良いじゃん」
「馬鹿。できるか。しかもそれがお前だったから尚更だ。なぁ、何があったんだ。俺はお前の事情は一応知ってるつもりだ。言うだけ言ってみろよ、何か助けになれるかもしれないだろ?」
「なるかな…」
「まぁならなかったら、そんときゃそんときだ」
その時頼んだ飲み物が来たので一度会話を切った。メロンソーダの上に乗っているアイスをつついて沈め、緑色にそまった部分をスプーンで掬う。小さい頃から、おばあちゃんとたまに外食したときに頼むこの飲み物が大好きだった。
御堂の家のご飯は美味しい。トメさんの料理の腕は素晴らしいし、たまに御堂の父が連れていってくれるレストランも美味しい。
でも、私は、この安っぽい味が好きなのだ。コンビニのお菓子とか、駄菓子とかそういうのも。気取っていなくて、庶民らしい味。
そういえば、気心の知れる友達と放課後に買い食いをしたり、小物屋さんを覗いたり、最後にそんなことをしたのはいつだっただろう。御堂の家に移ってからは移動は全部家の車で、大抵の場合家と学校の往復だった。寄り道なんて滅多にしないし、そんなことをしようものなら双子に後々ねちねちといじられるのが分かっていたからだ。
センチメンタルな気分になると涙腺が緩んだ。ぽろぽろ泣きながらメロンソーダをつつくこちらを見て宮内は焦った顔をする。
「お、おい、泣くなよ、頼むから。ほら、これで拭け」
咄嗟に手元にあったナプキンを差し出し、涙を拭くように言う姿を見て思わず笑った。
「泣くか笑うか、どちらかだけにしてくれよ。頼むから」
「だって、宮内格好悪い」
これが克巳さんとかだったら絶対に奇麗にアイロンされたハンカチを差し出してくれるところだけど。レストランの紙ナプキンがガサガサして肌にあたると少し痛かった。本当に可笑しい。
「すんませんね、ハンカチを持ち歩いてない男で。いいんだよ、最近のトイレはハンドドライヤーがついてるんだから」
格好がつかなく笑われたのが恥ずかしかったのか顔を赤くして言い訳をする宮内を見て、少しほっとする。これが普通の人の反応だ。御堂の家と学院がおかしいだけで、宮内は私と同類なんだ。
「あのね」
「なんだ」
「御堂の父はね、私のこと、家の道具にするつもりで引き取ったみたい」
「はぁ?!」
なんとなく重かった気分が少し浮上して、御堂の家に帰れとも言わない彼を少し信用して打ち明けると、目を見開いて驚いたようだった。
「え?はぁ、家の道具って?」
「なんか、婚約させるって言ってた」
「え、政略結婚?って今頃あんのか?」
「あるみたい。家の繋がりがって、言ってたもん」
良かった。学院で養護教諭をやっていても一般人の常識はあるみたいだった。

Wednesday, April 29, 2009

愛とはかくも難しきことかな 閑話2

今に揃っていた僕たちに部屋に入ってきてから気がついたのか、戸口で彼女がびくっと震えた。
少し迷った後、強張った顔で居間に入ってくる。
双子は明らかに歓迎していない態度だし、優成に至っては興味がないとばかりに視線すら動かさない。
可哀想になって、とりあえず手招きをして空いていたソファに腰掛けるように言うと、幾分かほっとしたように頷いて僕たちの輪に入った。
「あの、突然お邪魔することになってしまって、すみません…」
「本当だよ。突然すぎるっつーの」
「す、すみません」
双子の言葉に彼女は恐縮したように縮こまった。
こいつらはいつまでたっても子供っぽくていけない。まるで小学生みたいな態度だ。
「ていうか、なんで御堂に来ようと思ったわけ?やっぱ金なの?」
「誰に何言われたか知らねーけど、俺たちは歓迎なんてしないからな」
「わ、私は、御堂のお父様に、実の子だと言われて」
「それこそおかしくないか?お前、妾腹の子だって言われて、わざわざ本家にやってくるか?」
「何企んでるんだよ、今だったら見逃してやるよ」
あーぁ。彼女はついに涙目になってしまった。
双子は完璧に彼女のことを疑っていて、はなっから唯一の肉親が死んでしまって一人になった可哀想な子という可能性は考えていないらしい。
確かに夕食時に観察していただけでは、どちらかというと良家の子女という方が、孤児よりも似合っていそうな子だけれど。
ちくちくと虐めている双子に嫌気がさしたのか、優成は静かに席を立って出ていってしまった。関心がないから助けもしないらしい。
「なぁ、兄さん。妾腹なんて恥ずかしいよな」
「え?あ、あぁ」
優成の出ていく姿を見送っていたせいか、突然話しかけられてよく分からないけれど返事をすると、双子はほら見ろ、と萌ちゃんに向き直った。
「父さんに妾が居たなんて知れ渡ってみろ、御堂の恥になるんだぜ」
「迷惑なんだよ」
どうやら妾の子扱いをして、相手が怯んでこの家を出ていくことを期待しているらしい。それか彼女の化けの皮を剥がすことを期待しているのか。
相変わらず二人揃って幼い陰険さがある。
「二人とも、そのヘんにしておけ」
「なんだよ。克巳兄だって同意したじゃないか」
止めの手を入れると双子は虐めたり無いのか、反論してきた。しかし一睨みするとすぐに黙った。
「萌ちゃん、君、本当にうちの養子になる気なの?」
「…いえ、御堂のお父様には成人まで扶養してもらって、戸籍自体は渡辺に置いたままにしてもらうつもりです」
「ほら、やっぱり…」
双子はそれみたことかと背中からつついてくる。養子に入らないのは、婚約者候補だからだと真剣に信じているらしい。
「それなら、それで良いけど。そうだね、君が父の実子だという件は、他言しないでいてくれると助かるな。やはり父に妾が居たなんて話しが出回るとスキャンダルだからね」
「…はい」

Tuesday, April 28, 2009

愛とはかくも難しきことかな 閑話1

 能面のような表情をした、日本人形のような彼女が御堂の家に来たのは夏の初めだった。

「この子は渡辺萌ちゃん。お前達の妹になるから面倒見てやるんだぞ」
「よろしくお願い致します」

 呆気に取られる四兄弟の前で、父は嬉しそうな顔で彼女を紹介した後、トメさんに彼女に家を案内するように言いつけた。
 二人が居間から去ったあと、まず双子が一番の疑問をぶつけた。
「父さん、妹ってどういうこと?」
「言葉通りだ。彼女を今まで育ててくれていた方が亡くなってしまったので、僕が引き取ることになった。今日からお前達の妹になる。それから、彼女は僕のことを本当に父親だと思ってるから、そのことについて口外しないように」
「つまり僕たちの本当の妹じゃないってこと?」
「そうだ。だが、彼女には僕が本当の父親だと言って引き取ったから、そのことを彼女には言うんじゃないぞ」
 話しはそれだけだ、と父は彼女とトメさんの後を追うためにその場を去っていった。
 残された僕たちは、顔を見合わせて眉間に皺を寄せた。
「どう思う?」
「なんで突然知り合いの娘を引き取るんだ?しかも実の父親のフリなんかして」
「思惑の匂いがぷんぷんする」
「もしかして、あいつ隠れ婚約者だったりして」
「御堂家に花嫁修業とかいって送り込まれたとか」
「妹のふりして俺たちの中の一人とあわよくばくっ付けと」
「こないだ一也が新田との婚約断ったから」
「相二も断ったじゃねーか」
 双子がそっくりな顔で睨み合って馬鹿なことを言い合ってるのを横目に、優成を見ると目が合った。その途端彼は「興味ない」と短く言って居間を出ていった。
 基本的に兄弟中で一番女性に人気があり、いつも周りを恐そうなお姉様方に固められているせいか優成は異性に興味があまりない。それどころかうんざりしている節がある。だから彼が新しく増えた家族に興味を示さなくてもおかしくはない。
 しかし父の真の思惑はどこにあるのだろうか。
 会社の将来を考えている時は冷酷なまでに計算する人だが、プライベートだからといって情けをかけて知り合いの娘をわざわざ引き取るだろうか。
 そもそも渡辺なんて知り合い聞いたこともない。
 何か気になるな、と顎に手をあてた。

「いただきます」
 初めての夕食を一緒に取ることになり、さりげなく彼女を観察してみた。
 手を合わせたあと、奇麗に箸をすくい上げ、器に軽く触れて食べ始めた。畳敷きの和食卓で奇麗に正座をして背を伸ばしている様は慣れたもので、食事のマナーも完璧だった。
 優成はともかく、末の双子は母が早くに亡くなったせいもあってトメさんが甘やかしたものだから、マナーのレベルでいうと新しい妹の方が上らしい。今も双子で嫌いなものを皿から皿へ移し合っている。
「萌ちゃん、転校の件だけど一也と相二が同じ学年にいるから、困ったことがあったら二人に言うんだよ」
「はい。お二人とも、よろしくお願いします」
 能面のような顔は相変わらずだ。
 父に言われたせいか双子は嫌々オーラを隠しつつ彼女に頷いて返す。
 大人しいタイプなのか猫を被っているのか、彼女は口数少なく父に話しかけられ失礼にならない程度に答えを返す以外はあまり喋らなかった。
 食事が終わった後彼女はトメさんが片付けるのを手伝おうとしたようだが、断られて僕たちが揃っていた居間にやってきた。

Monday, April 27, 2009

愛とはかくも難しきことかな33

 どちらの決心も付かないまま、あからさまなネオンのついた道へ入ろうとしたとき。
「おい!」
 後ろからぐいっと上腕を掴まれて、肩を組んで萌を引きずるように歩いていた男から引き離された。
「な、なんだ、おまえ」
「補導だ。あんたこの子に何しようとしてたんだ、おっさん」
 補導の言葉を聞いたとたん、男はすごい速さでその場から逃げていった。なんて速い逃げ足なんだと呆れていると、頭の上からもため息が降りてきた。
「お前、何してるんだ」
「え、宮内!」
 てっきり警官かと思っていたのに、聞き覚えのある声だと振り向けば見知った顔があった。
「先生をつけろと何回言えば分かるんだ、お前は」
 髪の毛の後ろをがりがり掻きながら、彼はまた大きくため息をついた後、雰囲気をかえてじろりと睨みつけてきた。あまり見たことのない迫力にうっと一歩後ずさると、彼は逃がさないぞとばかりに距離をつめてくる。
「こんな怪しい場所でこんな遅い時間にあんな変な男と、なーにーをーしてたんだ」
「み、宮内には関係ないじゃない」
「先生だっつーの!じゃなくてだな、お前な、俺が本当に補導警官だったらどうするんだ。お前面倒みてもらってる身で保護者呼べんのか」
「いいの!関係ないの!あの人達とはもう関係ないの!」
 そう怒鳴って、近くに寄ってきていた宮内を力任せにどんっと押した。
 宮内は保険教諭のくせに体育教師のような体格をしている。だからそんなにダメージは受けず、バランスを崩し二三歩後ろに下がっただけだった。
「お前、どうしたよ。その格好もおかしいし、家でなんかあったのか?」
「…」
 宮内を信用しても良いのだろうか。
 適当に言い含めて電車賃だけ貰えたりしないだろうか。いや、でも携帯電話で家に連絡されたら厄介だ。どうしよう。
 爪をガリ、と噛みながら考えていると、宮内はもう何度目にかになるため息をついた。
「とりあえず、どっか入るか。こんなところで二人突っ立っていても目を引くしな」
 そう言われてから、自分たちがホテル街の入り口あたりにいることに気がついた。
 喧嘩中のカップルだとでも思われたのか、一組のカップルがくすくすと笑って通り過ぎていく。
 昼から何も食べていないことに気がついて、唐突にお腹がなった。
 宮内にも聞こえたらしく、苦笑いをしながら付いて来いと言った。

Sunday, April 26, 2009

愛とはかくも難しきことかな32

走って、走って、息が続かなくなっては歩いて、御堂の家から離れることばかりを考えながら進んでいたらいつのまにか人の多い繁華街の方へ着いていた。
疲れた。
喉が渇いたけれど、一休みしようにもお金はない。喫茶店の中で休憩している人達を羨ましく思いながら、その傍の遊歩道のベンチに腰掛けた。
誰にも見つからないようにそうっと玄関口から出たから靴は履いているけれど、財布などを取りに行くことは失念していた。それよりも逃げることばかり考えていたから。
頭が痛い。酸欠なのだろうか。
ガンガンと鳴り響く頭痛のせいか思考がまとまらない。
御堂の父は私に利用価値があるから引き取ろうとしたんだろうか。祖母はどうして彼に連絡するように言ったのだろう。どうして私は御堂家で嫌われ者なんだろう。母が御堂の愛人だったから?これからどうしたら良い?行く宛はない。頼れる人なんてこの街にはいない。祖母と暮らしていた場所はここから県を超えた場所で、昔の友達に会いに行くなんて電車もバスにも乗れないんだから無理だ。ヒッチハイク?アメリカのカントリーロードじゃあるまいし。
どうしよう。
どうしよう。
もうすでに薄暗くて、部屋着のワンピース一枚だけでは肌寒い。
遊歩道の街路灯に明かりが灯っていく。デート中のカップルや、家族連れが幸せそうに歩き去っていく姿を横目に膝を抱えた。

日が沈んでから数時間経つと、段々と人気が少なく成ってくる。
夜はホームレスのたまり場なのか浮浪者のような格好の人達が多くなり、怖くなって場所を移動することにした。
明るいほうに、明るい方にと進んだせいか歓楽街のネオンがちかちかと光る場所に辿り着いた。至る所に人が溢れていて、待ち合わせしている人達、ただたんに道ばたで戯れている人達、見せの呼び込みのスタッフ達が忙しなく行き来する。
周りにもたくさん同じような人がいたので、自分も植え込みのレンガに座った。
たまに明らかに部屋着なワンピース姿でいるのが変なのか、じろじろと見てくる人がいて居心地の悪さもあったが、肌寒さは人ごみのせいか紛れて感じ、それからこの人ごみならば御堂の人達が探しに来ても分からないだろうという安心感もあって緊張を解いた。
それから数十分くらいした頃、隣に一人座る気配がした。
なんとなく視線を感じてちらりと横を見ると、見知らぬ30代くらいのおじさんがこちらを見ていた。
目が合うと彼は親しげに笑いかけてくる。
「ねぇ、きみ、ひとり?」
「え?…そうですけど」
嫌らしい感じはしなかったから、とりあえず返事をする。
実際おじさんというよりもお兄さんでも通るくらいの年齢だった。克巳さんは27歳でまったくお兄さんという外見だから、この人は多分30代半ばくらいなんだろうか。
返事をしたことに気を良くしたのか、1mくらい開いていた感覚を詰めて近くに座ってきた。
「なんかワケありっぽいね」
「そうですか」
「家出してきたの?」
馴れ馴れしいく、唐突に嫌なところを突いてこられて、むっとした顔をすると彼は気にした風でもなく笑った。
「財布も持ってこなかったんだ」
「だから、なんなんですか」
「お金、欲しくない?」
「変なバイトならしませんよ」
一瞬でも爽やかそうな人だと思った自分を後悔した。
夜の街によくいる勧誘だ。こういう人に着いていっちゃいけませんと子供時代に祖母から何回も言い聞かされたし、着いていって死体になって川に浮かんでたりすることもあるらしいのですぐさま断った。
けれど彼はしつこく諦めない。
「変なバイトじゃないよ。ホテル行ってちょこっと触らしてくれるだけで3万円。ね、簡単でしょ?」
「ちょこっと触るだけで終わるなんて信用できるわけないじゃないですか」
「あ、じゃぁ6万円。ね、別に初めてじゃないんでしょ?ちょっとくらい良いじゃない」
「なっ、初めてに決まってるでしょ!何がちょっとよ」
「あ、初めてなんだ。じゃぁ10万!ね、奮発して10万出すから!」
「いい加減にして下さい!」
しつこい人間に捕まったと、植え込みから立ち上がろうとしたとき、彼が腕を取って引き止めてきた。
「家出中なんでしょ、10万あったら1ヵ月は持つよ。ね、どう?」
その言葉に一瞬抵抗するのを忘れる。
10万。
なんておいしい金額だろうか。
それだけあれば地元に帰れる。しばらくネットカフェにでも寝泊まりできる。
「やっぱ10万だったらいいんだね。じゃぁ、いこいこ。あっちに奇麗なラブホ知ってるからさ。やっぱ初めてだったらひどいところは嫌だよね」
「…」
手を引かれて、歓楽街の奥へと連れて行かれる。その間ずっと頭の中は葛藤ばかりだった。
こんな見知らぬ他人、しかもおじさんに、お金のために身を売っていいのか。ちょっとだなんて言っていたがそれだけで済むわけがない。大体にして売春は違法行為だ。でもこの場合相手が罪に問われるけれど自分は問題ないかも。でも、もしもこれが堕落の一歩だったら?このまま普通の生活に戻れなくなったら?もしも、この人が入れ墨関係の人で、いつのまにかキャバクラとかに売り渡されたら?
変な想像は留まるところを知らず、背筋がぞっとする。
それに法律や道徳の問題とかじゃなくて。
私の身体。
初キスも触られるのも御堂の兄弟に盗られちゃったけれど、最後の初めての経験だけは死守したのに。こんなところでこんな人に渡しちゃっていいのかな。
でも。
どうしよう。
お金。
御堂の家に帰りたくない。
あぁ、どうしよう。

Friday, April 24, 2009

愛とはかくも難しきことかな31

「何してるんだ」
 一瞬静かになったところに、長男の声が割って入った。双子の拘束が緩んだので、仰向けに床に転がったまま目元を腕で隠した。
「克巳兄、こいつがっ」
「女の子に手を上げるなって、何回言えばお前達は聞いてくれるのかな」
 彼等の話し声が遠く聞こえる。
 こうやって目を閉じていれば、世界が遠い。
 何も見たくない。
 私のまわりはいつも嫌なことばかり。
 足音が去っていく音がしても寝転んだままでいた。3人とも出ていったと思ったのだけれど、身体の下に誰かの腕が回されるのを感じて目を開けた。
「大丈夫?」
 克巳さんは静かにそう言うと、軽々と私の身体を抱き上げた。
「ここは鍵もないし良くないね。休めるところに行こうか」
 どうでも良い。彼の言葉を無視して目を瞑り身を任せると、彼はどこかへと歩き出した。


 連れていかれたのは離れの、どこかモダンな内装の部屋だった。
 ベッドや机があることから個人の部屋であることが伺える。連れてきた相手が克巳さんなのだから、そこが彼の部屋なことはすぐに気がついた。
 奇麗に整えられた大きなベッドの上に降ろされる。
 彼はベッドの端に腰掛けて、手を伸ばしてきた。何をされるんだろう、と一瞬身構えると彼は苦笑しながらその手を私の頭においた。
「お腹すいてる?」
「いえ…」
 さっきまで少し空腹を感じていたけれど、今はもう食欲がなくなっていた。
「気持ちが落ち着くまでここにいると良いよ。鍵もかかるし、双子が邪魔しにくることもないからね」
「……」
「どうかした?」
「…いえ」
 この人のこの優しさも、きっと嘘なんだ。そう思うと返事をするのも億劫になってくる。
 どうしてこんな所まで連れてこられなきゃ駄目なんだろう。
 離れの中には入ったことがなかったからいつも興味はあったけれど、こんな風に連れてこられるなんて皮肉だ。
「僕は昼ご飯を食べてくるから、気持ちが落ち着いたら出ておいで」
 そう言って克巳さんは部屋を出ていった。
 ベッドの上に寝そべったまま、寝返りをうちまた目を閉じた。

 どのくらいそうしていただろうか。
 日が少し傾いた頃、表の方で車が帰ってくる音が聞こえた。御堂の父だ。
 身を起こして、そろりと部屋の周りを伺ってから、廊下に出た。本邸と違って中は真新しいせいか、歩いても床は軋まない。足音を忍ばせて母屋に帰るため離れを繋ぐ渡り廊下を目指していると、御堂の父の声が聞こえた。
「…えちゃん…か……けど」
 自分の名前を聞いた気がして足を止める。
 どうやら渡り廊下の向こう側の廊下を、克巳さんと御堂の父が歩きながら何か話しているらしかった。だんだんと近づいてくる声に、傍にあったお手洗いの中にとっさに身を潜める。
「父さん、それはどうかと思うよ」
「どうしてだい?尾畑の息子はとても良い子だ。成績も良いし」
 今いち自分とどう関わりのある話なのか分からず、もしかすると自分の名が出たのは気のせいかと手洗いの前を去っていく彼らの後を追おうと、廊下へ出ようとしたとき。
 聞こえてきた言葉に一瞬自分の耳を疑った。
「尾畑のコネクションは大切だ。もしも萌ちゃんがあの家との橋渡しになってくれれば、うちの社も今しばらく安泰になるだろう」
「パーティで見初めた出会いなんて安っぽいな」
「いいじゃないか。合わなければ止めれば良いんだし」
 二人が去っていった後も、しばらくお手洗いの中で動けなかった。
 寒気が足下から上ってくるような、気持ち悪い感覚が全身を満たしていく。
 信じていた何かが根底から崩れていくようで、震える身体を抱きしめてそろりと廊下に出て、早足でその場を離れた。

Thursday, April 23, 2009

愛とはかくも難しきことかな30

 パタン、と部屋の襖を閉めた。
 ぎゅっと両手を握りしめる。
 未だに変な気分が抜けない。深呼吸を何度かすると、大分ふわふわした感じが抜けてきた。
 ちょっとショックだっただけだ。
 優成さんは昨日と同じことを言っただけだ。
 知ってた筈じゃないか。御堂の兄弟は私のことを嫌いなんだって、最初の日から分かっていたじゃないか。
 昨日誓ったじゃないか。出ていくんだ。こんな家出ていくんだ。
 高校だって友達もできないし、家の中でだってずっと安心できないし、こんな所に未練なんかない。優成さんが言いたいのもそう言うことだ。庶民には庶民の暮らしが似合っているんだって、そういう意味じゃないのかな。
 克巳さんだって、双子だって心の底では馬鹿にしてるんだ。
 そうだ、克巳さんだって今日もまたふざけていただけだ。もしかしたら双子と何か企んでいたのかもしれない。あの人が優しくするときは何か魂胆があるときだけだ。
 御堂の父は私のことなんか心配していない。そうだ、心配していたのなら、今日だって家に居て帰ってきたときに一言声をかけてくれただろう。
 どうして私はこんなに馬鹿なんだろう。
 何を想像していたんだろう。

 居ないんだ。
 この世界には、私のことを気にかけてくれる人なんてもう居ないんだ。
 物心ついた頃には両親はいなかった。唯一面倒を見てくれた祖母はもう居ない。

「げ、泣いてる」
「うわー、泣いてるよ」
 潜めた声だけど、十分こちらに聞こえる声音で喋るのが聞こえて顔を上げると、いつのまにか襖が少し開いていて双子が顔を除かせていた。
 一番見られたくない二人に泣いてる姿を見られて、慌てて袖口で目元を拭った。
「何か御用ですか」
「べっつにー、優成兄に出ていけって言われてどんな顔してるかなって思っただけ」
「用がないなら出ていって下さい」
 つん、と顔を背けると二人がむっと顔をしかめたのが横目で見えた。
「なんだよ、慰めてやろうと思ったのに」
 慰めるじゃなくて、貶めるの間違いじゃなかろうか。
「トメさんがご飯ができたと言っていましたよ。早く行ったほうが良いんじゃないんですか」
「お前も行くんだろ」
「私は遅れるので先に食べておいてくださいとトメさんに伝えて下さい」
 今は優成さんに会いたくない。
 彼の顔を見れば泣いてしまうかもしれない。そんな醜態を晒したくない。
 考えていたらまた涙が滲んできた。
 未だに襖のところから動かない二人を見つけ、苛々とした気持ちが溜まってくる。
「早く出ていって下さい!」
 怒鳴っても動かない二人に近くにあったクッションをなげつける。力任せに投げたそれは、二人には当たらず襖に当たって跳ね返った。
「な、なんだよ、せっかくちょっと可哀想かなって思ってやったのに」
「あなたたちに哀れに思われる筋合いはありません!大体、この家で私が一番嫌いなのはあなたたちですから!」
 苛々が止まらない。溜まっていた鬱憤が決壊したダムのように、酷い言葉になって流れ出す。そうだ、私はずっとこの二人が嫌いだった。
「いつも意地悪ばかりして、たまに暴力まで振るってきて、人の嫌がることばかりして。私が何も言わないからって、何をしても良いと思わないで下さい!大体、見分けのつかない双子なんて気持ちが悪いんですよ。同じ格好して人を惑わせるのがそんなに楽しいですか!」
「なんだよ、俺たちの見分けがつかないんじゃなくて、お前が見分けられないんだろ」
「見分けたくなんかないですよ。あなたたち二人は私に嫌なことしかしてこないですから、見分けたって無駄なんです!」
「このっ」
 顔を怒りの色に染めた双子が腕を振り上げた。それをクッションで受け止める。
 でも二対一ではやはり勝てずに、振り回していたクッションは取り上げられて、床に腕を縫い付けられた。
 涙に濡れた顔を隠す術はなく、二人が顔を覗き込んできた。それを見たくなくてぎゅっと目を閉じる。噛み締めた唇から自分の涙の味が少しだけした。
 嫌いだ。
 あぁ、消えてほしい。いや、消えてしまいたい。どうして私はこんなところで口論してるんだろう。どうして私はこの家に居るんだろう。どうして今までこの家に居たんだろう。
 嫌いだ。嫌いだ。全部嫌いだ。この家に居るひとみんな、いや、この世界が全部憎い。
 どうして。酷い。おばあちゃん。どうして死んじゃったの。どうして私は御堂の家に居るの。どうしてこんな酷い世界に私を残していくの。

Friday, April 10, 2009

片恋番外 2

 あたしは、池谷が好きだ。

 池谷を見ると、胸がきゅっと締め付けられて苦しい。息が苦しくなって、心臓がどきどきして、どうにかなってしまいそうなのに、それが何故か心地良い。まるで麻薬のような人だ。

 格好良いか、と聞かれたら、欲目を含めつつもやはり頷いてしまうと思う。
 だって格好良いのだ。その姿勢が。奈津子を真剣に見つめる眼差しが。
 もしも。
 もしも何億分の一の確立で、池谷があたしをそんな風に見てくれる日が来たら。そう思うと夜も眠れなる。


 しとしと、校庭に降り注ぐ雨は止むことを知らずに、いくつもの水溜まりを作っていく。どんよりとした空模様はまるで心の中を映す鏡のようだ。


 最近、人生で初めて告白というものをされた。
 高校に入って同じクラスになって初めて知り合った彼とはあまり話したことはなかった。親しいとか、そういう以前の問題で、そんな人が自分のことを好きになってくれることがあるのかと驚いた。

 断ってしまってからも、以前からの距離とあまり変わらない、そう近くない距離をお互い保っている。気まずくなったと言えばそうかもしれないが、元々あまり視界に入ってくる存在ではなかったから、そこまで気になるほどではない。

 それはまるで、私と池谷のよう。
 私は今まで一度も池谷に自分の気持ちを告げたことはないけれど、きっともう彼は知っているんだと思う。奈津子が言ったのか、樋川が言ったのか、それとも私のあから様な態度に自分で気がついたのか。
 高校に入ってから、ほとんど話すこともない。
 奈津子とはすれ違うときに立ち止まって少し話しをすることはあるけれど、まったく友達のグループが違うせいもあって、以前ほどの近さはなくなった。
 勿論、以前からそこまで仲が良いこともなかったけれど。
 私たちの話題に池谷の名前は軽く上がるけれど、奈津子からは無言の圧力を感じる。『池谷は私の物よ。取らないで』。そんな気持ちがひしひしと伝わってくるから、あたしは余計に池谷の周りには近づけない。
 奈津子は昔あたしと樋川の関係を疑ったこともあるし、好きな人のことは独り占めしたいタイプなんだと思う。あんなに奇麗なんだから、心配しなくても男子は皆奈津子に夢中なのに。

「吉原」
 廊下を歩いていると後ろから名前を呼ばれた。聞き慣れた声。振り向くと、思ったとおりの人が近くの教室の窓から顔を覗かせていた。
「樋川」
「移動教室か?」
「うん。これから化学なの」
「げー、俺化学とか苦手」
 彼は最近何故かよく声をかけてくる。
 樋川は池谷の親友で、いつも近くに池谷がいるせいか気まずくて息苦しい。今も、隣で他の子と喋っている。なんとなく俯きがちでいると、勘違いしたのか樋川が「気分が悪いのか」と聞いてくる。
 首を振ると、大きな手が伸ばされて額に触れた。
 ひんやりとした体温が触れた部分から広がる。
「熱はないみたいだな」
「本当に、大丈夫。それより、あたし、そろそろ行かないと」
「しんどくなったら保健室行けよ」
「うん、ありがとう。じゃあね」
 踵を返して数歩進んだ頃に溜めていた息を吐き出した。
 今日は池谷を近くで見れた。ちょっとだけだったけれど、それだけでも嬉しい。
 毎日心の中で数えている。池谷を見かけた日はいつもより幸せ。すれ違えた日はもっと幸せ。言葉を交わせた日はもっともっと幸せ。
 樋川の近くは気まずくて息苦しいけど、でもやっぱり有難い。あたしの気持ちを汲んで話しかけてきてくれているんだろうから、良い人だ。奈津子が昔好きだったというのも頷ける。
 ふと、樋川のひんやりとした大きな手を思い出す。
 冷たい手の人は心が暖かいと言うけれど。そんな風に見えないのにいつも優しそうな雰囲気を纏う彼を思い出し、モテるんだろうな、とふと思う。
 中学の時からそれなりに人気のある人だったけど。奈津子然り、樋川もそれなりにオーラのある人だった。この間も告白されたらしいし。
 女子には近寄りがたい人なんだけど、中学の頃に何度か勉強を手伝ってあげたせいか、あたしには気安く話しかけてくる。
 あの人に好きな人がいるというのも不思議な感じだ。
 一途そうというよりは、告白された子と付き合って気が合わなければ別れそうなタイプなのに。
 でも、一途だからこそ、あたしの池谷に対する気持ちを理解してくれるのかも。
 本当に良い男だと思う。
『いつかお前が気づくよ。お前のことを想ってくれる、俺みたいに良い男がいることにさ。そしたら、池谷よりも、そいつのこと好きになれるよ』。
 いつか、そんな日が来るだろうか。

Monday, April 6, 2009

愛とはかくも難しきことかな29

 暖かいお風呂に浸かると沈んでいた気分も少しだけ上昇した。
 部屋着のワンピースを着て廊下に出ると、美味しそうな香りがする。気がつけばもうお昼の時間で、そういえばお腹が空いたなと思いキッチンに顔を出した。
 トメさんが忙しそうに料理を作っているので手伝いを申し出ると、軽く断られた。もう何回か手伝いましょうかと申し出たことがあるけれど、一度も受け入れられたことはない。
「お嬢様はそんなこと気にしなくて良いんですよ。それよりもリビングでテレビでも見ていて下さいな」
 そう言われて渋々とその場を去る。
 純和風なお屋敷は一部を除いて全部畳みか木の床なのだけど、改築されたキッチンやリビングはモダンな家具が和の中に奇麗に調和されている。後は克巳さんとお父様が寝泊まりしている離れは洋風とまではいかないけれど、内観は今風の家だった。中に入ったのは一回ほどだけど。
 リビングに入ると、ソファに優成さんが座っていた。
「おかえりなさい」
「あぁ」
 とりあえず、自分より後に帰ってきたのだから、と挨拶をすると彼は気にした風でもなく頷いた。矢田さんに借りた服はサイズが小さかったのもあってか、すでに着替えている。
「お風呂入るんでしたら、空いていますよ」
「いや、部屋でシャワー浴びたからいい」
 お手洗いの数が多いのは和屋敷だからだと思っていたけど、お風呂場の数ももしかして多かったり。自分の部屋にはお手洗いもお風呂場もないのでメインの大きな場所を使っているけど、滅多に他の人が使っていなさそうなのはそのせいなのか。
「座らないのか?」
「え、あ、どうも」
「昼食はあと10分くらいでできるって言ってたぞ」
「そうですか」
 リビングのソファに腰掛けると、柔らかい革地に沈むような感触がした。すごいふわふわだ。そういえば、今までリビングなんて避ける様にしていたから、このソファにも座ったことはなかった。
「兄さんとは特に何もなかったのか?」
「え、はぁ、まぁ」
 あったといえば、あった。けれど、それを優成さんに説明するのは難しくて言葉を濁す。
「そうか」
 その返事をどう取ったのか、優成さんは考え込むように顎に手を当てた。
「…昨日の夜のことだけどな」
「え」
 昨日の夜啖呵を切って寝たことを今更ながらに思い出してどきっと心臓が鳴る。
 顔を上げて彼の方を見ると、優成さんは真剣な顔をして言った。
「やっぱりお前はすぐにこの家を出た方が良い」
「……それは、昨日の晩も聞きましたよ」
 一瞬心臓が鳴ったけど、精一杯、普通の顔を保って、言葉を返す。
 嫌われていることは知っているんだから。同じ言葉を二回聞いたからって二度目も傷つくことはない。そう自分に言い聞かせるように心の中で呟く。
「いや、そうなんだが。…そうじゃなくて、真剣にだな、俺はお前にこの家に居て欲しくないというか…」
 優成さんは言葉を選ぶように、途切れ途切れ言葉を紡ぐ。そしてその一言、一言が鋭く心に突き刺さるような痛みを齎した。
「……そう、ですか」
 やっと絞り出した声が少し掠れた。
 変なの。
 自分で自分の声が制御できないような。変な気分。ふわふわして、足下がおぼつかないような。
「やっぱり、お前は然るべき家に帰るべきだと思うんだよ」
——………然るべき家って何処ですか。
 祖母と住んでいたあの家ですか。確かに御堂の父曰く、未だに売られはせず空き家になっている筈だから、帰ろうと思えば帰れる筈。
 瞼の裏に祖母と過ごした小さな家が思い浮かぶ。帰れるものなら帰りたい。あの暖かい場所に、帰りたい。
「……お父様が帰っていらっしゃったら、お話してみます」
「そうか」
 ほっとしたように優成さんはそう言った。
「坊ちゃん方!お嬢様!お昼の用意ができましたよ」
「……お昼ができたみたいですね。私、部屋にタオル置きっぱなしにしてきたので、ちょっと取ってきます」
「あ、あぁ」

Sunday, March 29, 2009

愛とはかくも難しきことかな28

着替えを持って脱衣所に行こうとしたら、待ち伏せしていたらしい双子が待ち構えていた。
廊下の壁に向かい合わせにもたれ掛かって立っていたので、真ん中を素通りしていこうと思ったら嫌みのように長い足が萌の足をひっかけるようにぱっと邪魔してきた。
半分予想できていたために、転ぶことはなかったけれど、胡乱な目で睨みつける。すると彼等にも睨み返された。よくよく見てみると一人の頬には大きな痣がついていた。昨晩克巳さんにやられた跡なんだろうか。
「どこ行ってたんだよ」
苛立たしげにそう言われて眉を潜める。
「お二人には関係ないと思います」
そう言って、横を通りすぎた。と思ったら服の襟を掴まれて、二人の間に戻された。
「もうっ、なんなんですか!」
「なんで男物の服を着てんだ!」
「一晩中ドレスを着てろって言うんですか?!」
「これ、優成兄の服じゃないな。誰のだ」
なんで優成さんの服のことまで把握してるんだこの双子は。というか、何なんだ一体。
「もしかして、泊まった先でやってきたんじゃないだろうな」
「化粧も落としてるし、髪の毛も洗ってきたみたいだし」
「はーなーしーてっ!」
何故か全身チェックをしだした二人から逃れるべく身を捩ったけれど、二対一では身動きが取れない。この家で唯一の頼みの優成さんは未だ帰ってきていないみたいだし、トメさんは食事の用意をしに風呂場から一番遠いキッチンに行ってしまったし。このまま二人に脱衣所に連れ込まれてしまったら、と顔を青くしているとふっと影が落ちた。
「あっ」
「痛っ!」
ゴン、ゴンと拳が頭に落ちる音がして双子が悲鳴を上げた。萌も一緒に驚いて顔を上げるとしかめ面した克巳さんが立っていた。
「手を出すなって、言ったよな」
「げっ、克巳兄」
長兄の出現に双子は慌てたように萌の腕を離し、そして舌打ちを残してばたばたと去っていった。この間殴られたのが相当効いたらしい。いい気味だ。
「大丈夫?」
さりげなく肩に手を回してこようとしたので、ぷいっと顔を背けて距離を取った。
「助けてもらったことは感謝してます。でも嘘つきな人は馴れ馴れしく話しかけてこないで下さい」
「何で怒ってるの?嘘つきって?」
意味が分からない、という顔で尋ねられてかっと怒りで顔が赤くなった。
「……っ、もういいです」
どうせ私が馬鹿なのだ。御堂の父が心配してくれるなんて甘言でころっと騙されてしまったりして。独り立ちしようなんて決心しておきながら、御堂の父に心配してもらいたいなんて思ってた私が愚かだったのだ。馬鹿みたい。馬鹿みたい。
滑稽だっただろう。克巳さんの言葉に心を揺らせて、動揺して。どうせ裏で嘲笑っていたんだ。
この家に来て、傷つくことなんて慣れた。でもそれでも胸が痛い。この人はどこまで私を傷つけたら気が済むんだろう。
克巳さんを押しのけて、脱衣所の戸を開けようとすると、背中にふんわりとぬくもりが当たった。一瞬抱きしめられていることに気がつけなくて、反応が遅れる。
「か、つみさ」
「嘘じゃないよ。父も僕もたくさん心配したんだよ」
「…嘘!」
一瞬心の中を読まれたのかと思った。この人のこういうところが怖い。なんでも分かっているんだぞってそういう態度なところが。
「嘘じゃない。疑り深いね、君は。今日も仕事があった父が午前中家に居たんだ。トメさんに聞いてみたらいい」
ぎゅっと、後ろから抱き込まれるように抱擁された。体温が浸透するように広がった。
「………怒って、なかった、ですか?」
「怒ってないよ。僕が迎えに行くって言ったら、ほっとして仕事に行ったんだ」
「嘘………」
きっとこれも甘言なんだ。克巳さんお得意の口からでまかせなんだ。優しくしてるフリなんだ。持ち上げるだけ持ち上げておいて、また意地悪するんだ。
———でも。
なんでこの人の言葉が一番優しいんだろう。
フリでもなんでも、この人が最初からずっと心配してくれてた。風邪引いたときも、看病してくれてた。
心の半分は信じてみたいという馬鹿な声がする。でも心のどこかで全部演技なんだって警戒する声がする。
ぎゅっと力を混めて、克巳さんの腕を解くと、あっけなく彼は身体を離した。
「…お風呂、入ってきます」
「大丈夫?また弟達が何か言ってきたら、僕に言いつけるって言うんだよ」
「はい、ありがとうございます」
からら、と引き戸が軽く音を立てて閉まった。少しして克巳さんの足音が遠のくのを確認すると、脱衣所の床にぺたりと座り込んだ。

Wednesday, February 25, 2009

愛とはかくも難しきことかな27

「嘘じゃないよ」
「だって…」
 似合わないドレス着せて。…キスまでして。あんなこと悪ふざけでなきゃできないではないか。
「だって?」
「……何でもありません」
「信用してくれないの?」
「できません。でも、もう良いんです」
 どうせ、もうすぐ出ていくつもりなんだし。今更この人と表面上だけの和解なんてしても、意味がない。
「ふーん」
 克巳さんは唇を尖らせて、拗ねた顔で前を向く。
「じゃぁ、信用してくれるまで、家に帰らない」
「は?」
 そう言った彼は、シフトノブを握る左手でガコンとギアを入れ替えた。途端に身体に重力がかかる。ブオン、と大きな音とともに車が青信号で発進した。
「か、克巳さんっ!」
 突然スピードをあげる彼に、悲鳴のような声で名を呼んだが、振り向かない。彼は楽しそうに運転している。車のことはよく分からないけど、あきらかにスピード違反じゃないのだろうか。こんなに運転の荒い車に乗ったのは初めてだ。
「い、家に帰らないって、嘘ですよね」
「さぁ、どうかな。今日は良いお天気だし、良いところ連れていってあげるよ」
 まるで飴を上げて子供を攫う変質者のようなことをいう克巳さんを本気で恐ろしく思えた。その彼の向こうでは、何台もの車が通り越されて行く。
「帰りましょうよ、ねぇ、克巳さん。お願いですから」
「だって信用してくれないんだよね?」
「信用します、もう嘘つきなんて言いませんから!」
「本当に?」
 道は高速沿いの国道だ。越した信号の上に高速道路の入り口の表示が見えてますます焦る。
「本当です。疑いません。お願いですから、ね、お願いですから帰りましょうよ」
「そっかー。うん、そうだねぇ」
 にこにこ笑っている彼ははっきりと答えてくれない。あわあわとシフトノブにかかる彼の手の袖口を掴む。力を混めてしまえば克巳さんの運転の邪魔になるので、そんなことはできず、微妙にすがるように引っ張る。
「克巳さんっ」
 もう駄目だと思って、ぎゅっと目をつぶった。しかし、ぎりぎりのところで車が車線変更して高速の入り口から外れた。
 それでようやく克巳さんの袖口を握っていた手を離して、ふぅと息を吐いて額に浮かんだ冷や汗を拭いた。座席に深く腰掛けて、運転している彼を見やると、なんだか楽しそうな顔をしていた。まるで悪戯が成功して喜ぶ子供のような顔。この人は一体何歳だったっけ。
 車が家路についたのを確認できると気が抜けてしまった。
 疲れた。
 早くこの家を出たい。今日、御堂の父に会えたら、私はこの兄弟から逃れられるのだ。
 優成さんのことは結構好きだったけれど、やっぱり相容れないことは多いし、寂しくなるけれど離れることは良いことだと思う。
 私は、どこか違う場所で、自分に合った道を歩むのだ。


 そう心の中で誓いながら家についたのだけれど。
「まぁまぁまぁ、なんて格好されてるんですか」
 トメさんに出迎えられた玄関で、矢田さんに借りたTシャツとズボンにトメさんが大げさに驚かれた。確かに華奢なハイヒールにはまったく似合っていないけれど。
「これ、ドレスなんですが、クリーニング行きですか?」
 手洗いの表示があったかどうか分からない克巳さんに貰ったドレスを、矢田さんに貰った紙袋ごと渡すとトメさんは心得たように受け取ってくれた。
「そういうのは私がやっておきますから、温かいお風呂でも入ってご自分のお洋服に着替えていらっしゃいまし」
「あ、あの、お父様にお会いしたいのですが」
「旦那様はお出掛けになられましたよ。夜にはお戻りになられます。それよりも、そんな格好でお会いしたら心配なされます。着替えてらっしゃいまし」
「はい…」
 どうやって父に話を切り出そうか。それよりも、怒られたらどうしようと思うと、胸が緊張で疼いていたのに、出かけたときいて拍子抜けしてしまった。
それから、胸のなかにムカムカとした気持ちが湧いてくる。
やっぱり嘘つきではないか。
克巳さんは家で御堂の父が心配していると言っていたのに。

Tuesday, February 17, 2009

片恋番外

「—………ごめん、俺、好きな奴いるから」
 目の前の女の子に申し訳ないと思いながらも、きっぱりと告げる。
 彼女は気丈に笑顔を保ちながら頷いて、足早にさっていった。
 はぁ、とため息が漏れる。
 見上げた空は、今にも雨が降り出しそうなくらい曇っている。まるで自分の心模様のようで、余計に陰鬱とした気分にさせる。
 どうして人の気持ちとはこうも上手くいかないんだろうか。そう思いながら、自分も教室に戻るために、校舎裏から踵を返した。

 教室から荷物を取ってきて下駄箱へ向かったとき、見覚えのある姿が隣の列から出てくるのを見つけて声をかけた。
「吉原」
 くるり、とこちらを向いた彼女の長い黒髪がふわりとなびく。
「樋川じゃない」
「今帰りか?」
「うん、なんか雨振りそうでしょ。図書館に居たんだけど傘持ってきてなくって」
 困ったように笑う彼女に胸が高鳴るのを隠しつつ、一緒に帰ろうと誘った。


 なんとなくじっとりとした空気が雨の前触れを感じさせる。冷たい風が頬を撫でる。湿度のせいで余計に寒く感じる気がした。
 いつ降り出してもおかしくない空に吉原は心配なのか何度も見上げている。その横顔を、形の良い頬を目で追いながら話しかけた。
「久しぶりだな。高校に入ってから、あんま接点ないし」
「そうだっけ?」
 そうなのだ。クラスは離れてしまったし、中学に比べるとクラス数が多いせいか余計に遠く感じる。そんなことで寂しく思っているのは自分だけだろうけど。
「元気にしてた?」
「まぁまぁ。そっちは?」
「まぁまぁだね」
 ふふ、と笑って彼女はそう答えた。
 高校に入って皆髪の毛を染めたり、化粧をしたりしているけれど、吉原はあんまり中学の頃から変わっていなくて、どこか幼い感じがする。それとも、同じ高校に来た他の中学の奴らが大人びているだけなのだろうか。
 見習って自分もそれなりに見た目に気を使っているし、池谷も髪の色が薄くなった。瀬名は化粧が濃くなって、少しケバい感じになってしまった。美人は美人なのだが個人的には元の方が可愛いと思うのだけど。池谷は気にしていないし瀬名の周りも皆そういうタイプの女子が集まっているので仕方ないのかとも思う。
「お前、好きなやつできた?」
「どうして?」
 唐突に聞いてしまったせいか、吉原はきょとんと首を傾げる。
「なんとなく」
「なにそれ」
 池谷のことは諦めたのか、と聞けなくてそういう聞き方をしただけに、理由は言えず、彼女は憮然とした俺を見てぷっと笑い出す。
「樋川こそ、モテモテなくせに、彼女いないの?」
「いねーよ。つか、モテモテとかなんだよ。モテてねーよ」
 なんとなく気恥ずかしくて悪態をつく。すると吉原は人の悪い笑みを浮かべた。
「うそばっかり、今日放課後呼び出されたんでしょ」
「な、なんで知ってんだよ」
「木下さん、可愛くて有名だもの」
 今日、告白してきた子の名前まで知っていたのかと愕然とする。どちらかというと知られたくなかった。勿論、女の子も振られたことなんて皆に知られたくないだろうし、振った手前彼女に恥をかかせたくはない。
 大体、可愛くて有名なのはお前じゃないか、と心の中でぼやく。
 中3の頃までは肩で揃えていた髪を、今では背中にかかるくらいまで伸ばして。陸上部も止めてしまったせいか、色も白くなってきて、男子の中では清楚で可愛いと人気なのだ。性格の良さは中学の頃からだし、いつ吉原が告白されるのかとハラハラしているこちらの思いも察して欲しい。勿論、本当に察されると困るのだが。
「それで、付き合うの?」
「付き合わねーよ、俺、好きな奴いるもん」
 言ってしまってから、はっとする。慌てて撤回しようとしたが、別に誰を好きだといったけでもないし、慌てる方が変かと思い直して、隣を歩く彼女をちらりと見る。そこで、こちらを見上げる黒目と目が合い、一瞬どきりとする。
 吉原は柔らかく笑った。
「樋川、好きな人いたんだ」
 その言葉に、多少傷つくがわざと「なんだよ、居たら悪いか」と悪態をついて誤摩化した。
 別にこれくらい、どうってことない。池谷のことを好きな吉原をずっと見ていた中学3年だったのだから。
「お、お前はどうなんだよ。池谷のことは諦めたのかよ?」
「ん?うーん、そうだねぇ、どうかな」
 誤摩化すつもりなのか、吉原は言葉を濁した。
 その時、雨が一雫ぽつりと降ってきた。
 ぽつ、ぽつ。
 それからぱらぱらと、だんだん強く降り出してきて、俺は急いで吉原の腕を掴むと駅に急いだ。



 駅のホームで電車を待っている間も、電車に揺られている間も、なんとなく二人の間に口数が少なくなった。最後に聞いた質問のせいなのか、と俺は内心焦った。もしかして、気を悪くさせてしまったのかも、と。
 雨は強くなる一方らしく、自分たちの最寄り駅で降りた時には外は土砂降り。さすがに歩いて帰るには教科書を濡らさずにいられないようで、二人して顔を見合わせた。
「傘買ってかえるか?」
「ううん、勿体ないから親に迎えに来てもらう。車で来るから樋川も乗っていきなよ」
「いいのか?」
「うん、もう連絡してあるから」
 その代わり、あと20分くらいかかるらしいけど、と彼女は申し訳なさそうに言った。濡れないで帰れるのなら願ってもない、とその案に乗る。勿論、もっと吉原と一緒に居たかったし、吉原の親に会ってみたかったからだけど。


 ざぁざぁと降り続く雨を見つめながらぼうっとしていると、ぽつりと吉原が言った。
「樋川は、どうしてその子のことが好きなの?」
「え、なんだよ、突然に」
 焦る俺を見て吉原は笑う。
「樋川、木下さんを振っちゃうくらい、その子のこと、すごい好きなんだよね」
「当たり前だろ」
「好きな人がいるのに、他の人と付き合うのっておかしいよね?」
「は?」
 どういうことだ、と彼女を見るといつのまにか笑みは消えていて、表情の読めない横顔は雨を見ていた。
「このあいだね、告白されたの。断ったんだけど、諦められないって、お試しでいいから付き合ってくれって」
「え、マジかよ」
 誰だ、俺の吉原に告ったやつは。
「おかしいよね、好きな人がいたら、他の人となんて付き合えないよね」
「お前、なんて返事したんだよ」
「無理だって言ったよ。ちゃんと断ったら、一応納得してくれた」
 もう少しで告白した相手の名前を聞いて殴りに行こうかと思ったところで、その答えを聞いてほっと気持ちを落ち着けた。
「でもね、私、思ったの。あぁ、この人も一緒なんだなって」
 その吉原の言葉に、ぎくりとする。
「私の池谷を好きな気持ちはきっと報われないけど、この人の想いは、私が頷くだけで報われるんだって。私が感じる苦しい想いをこの人も同じように感じてるんだって」
「だ、だからって付き合うのは、問題外だからな。お前には相手に気持ちがないんだから、付き合ったって相手は結局報われねーじゃん」
「そうだよね。でも、お試しって言われたとき、本当は少しだけ心が傾いたの。私、一体いつまでこんな想いを引きずるんだろうって」
 吉原は、はぁと息を吐いた。その息が白く曇って消える。
「池谷が好き。でも奈津子のことも好き。二人とも大切な友達だと思ってるし、お似合いで幸せそうだから、いつまでも一緒に居て欲しい。でも、きっと私、いつも待っているんだと思うの。奈津子が他の人を好きになったり、池谷が何らかの理由で奈津子と別れるのを」

 ぴちゃん、と足下で水が跳ねる。
 その音でずっと自分が息を止めていたのに気づいた。
 吉原は相変わらずどこを向いているのか分からない目で外を眺めている。
 何かを言おうとしたけど、何と言えば良いのか分からなくなって口を閉じた。
 冷水と熱湯を一気に浴びたような感覚で目眩がしそうだった。
 今の言い方だと吉原は池谷のことを諦めようとしているのかもしれない。チャンスじゃないか。何と言えば良い?何と言えば、吉原が池谷を諦めるだろう。俺を向いてくれるようになるのだろう。
 でも。
 でも、彼女は同時に池谷を諦めることの難しさを噛み締めているのだ。
 3年近く池谷のことを好きだった吉原。その想いがどれだけ強くて重いものなのか、ずっと見てきた自分には分かる。
 意地悪な思いで別れれば良いと思っているわけじゃない。ただ、もしも、何分の一かの確立で池谷と瀬名が別れたら。そしてやっと自分の方を振り向いてくれる日が来たら。そう考えずにはいられないのだ。
 俺は?俺は、いつか吉原が池谷を見つめるのを諦める日を見ている。いつか俺の方を向いてくれる日をずっと夢見ている。
 今日、木下という子に告白されたときも、俺の想いは揺らがなかった。
 吉原は相手の男に何と言われたんだろう。あんなに池谷だけを見ていた彼女が不安に思うほどの言葉をかけたのだろうか。
 指先をぎゅっと握りしめる。
「俺は……」
 口を開けば掠れた声が出た。
 情けないけど一度んんっと咳払いしてから、気を取り直して続きを言う。
「俺は、吉原はそのままで居れば良いと思う」
 吉原は、え、と顔を上げてこちらを見た。
「気持ちは変わるかもしれない。もしかしたら池谷と瀬名は別れるかもしれない。その前に吉原に他に好きな人ができるかもしれない」
「そんなこと…」
 あるわけない、と言いかけたのだろうか。吉原は、でも戸惑ったように、指先を唇にあてて考え込むように黙った。
「きっと、その時が来ないと分からない。吉原にも、誰にも。でも、俺は、お前は無理に自分を変えなくて良いと思う。諦めようとしたり、好きでもないのに他のやつと付き合ったり、そんなことしなくていいと思う」
 吉原が昔、池谷と瀬名のことを想った気持ちが今になって分かる。
 結局俺と吉原は同じところを歩いているのだ。好きで、好きで、たまらなく好きなくせに、結局相手が幸せでいてくれることを祈ってしまう。
「俺が付き合ってやる。お前の片想いに。お前が、納得できるまで、さ」
 これが、人を好きになるという気持ちなのだろうか。切なくて、苦しい。でも、暖かくて、優しい。傷つけたくない、傷ついて欲しくない。笑っていて欲しい。
「きっとさ、いつかお前が気づくよ。お前のことを想ってくれる、俺みたいに良い男がいることにさ。そしたら、池谷よりも、そいつのこと好きになれるよ」
 それは俺かもしれない。違う男かもしれない。でも俺であれば良い。吉原が最後に選ぶ男が俺であれば良いと、心の底から願っている。
 吉原は、しばらくぽかんとしていた後、頬を赤くして照れたみたいに笑った。
「樋川みたいに良い男って、何それ。確かに樋川は良い男だけどさ」
 その笑みはいつかとは違って、本当に俺を見て笑ったんだなと思うと、馬鹿みたいに嬉しくなった。


 
 好きだ。
 
 好きだ。
 

 俺は吉原が好きだ。

Sunday, February 15, 2009

優しい人第五話

5.

 土曜日、朝の11時から愛実はエミのお気に入りのセレクトショップに来ていた。
 カジュアルな服から小物、靴まで何でも揃っている。一度雑誌で有名人御用達と書いてあったような気もするのだけれど。エミの好みはそういう場所が多い。
「アーちゃん、こんな服はどう?」
「た、高いよ」
「お小遣いいっぱい貰ってるじゃない。せっかくだから使わないと!」
 値札が1万円を軽く越すような服ばかりを押し付けてくるエミに弱々しく反論しながらも、試着室で数枚着替えてみると、エミの見立ての確かさを示すように自分に似合っていた。
「わぁ、可愛い!」
 外で待ち構えていたエミが手を叩いて褒めてくれて、少しだけ買ってしまおうかという気になる。
 スカーフやネックレスなどを試着した服の上に合わせながらエミは首をひねる。
「アクセサリーはこれが良いんだけどなぁ」
「あたしピアスの穴は開いてないよ」
「だよねぇ。でも最近イヤリングって中々売ってないし……」
 中学生の頃に母に強請って耳に二つ穴を開けたエミは、いつも可愛いピアスを付けている。槌谷も幾つも開けているし、たまに開けたいとは思うのだけれど痛そうなのでなかなかその一歩が踏み出せない。
 高校はアルバイトなどは厳しいけれど、服装に関してはそれほどでもない。
 成績が悪ければ色々言われるようだけれど、エミが注意されたことがないのを見るとピアス程度は大丈夫らしい。
「ま、いっか。とりあえずこのくらいで」
「え?」
「すいませーん、この服着て帰るんでタグ切って下さい」
「え、え?エミ?ちょっと、何言って」
「いいから、いいから」
 店員がやってきてささっとタグを切り取って行くと、出てきた領収書にエミが手早くサインをしてしまった。いつのまにクレジットカードを渡していたんだろう。
 顔見知りらしい店員とエミがニ、三言葉を交わして二人は店を出た。
「エミ、困るよ、ああいうの」
「いいのいいの、うちのパパに請求が行くから」
「それこそ困るよ。お父さんに怒られるかも」
「祥二パパはきっと気づかないから大丈夫だよ」
 それはあるかもしれない。お母さんに関係のある時以外はほとんど書斎に閉じこもっているような人だし。
 バレないといいなぁ、と思いつつため息をついた。
 
 軽いニットのベストを半端袖のシャツの上に重ね、下はふわふわの白いスカート。鞄は朝エミが貸してくれたブランド物のポシェット。髪の毛はお母さんが奇麗にお団子にしてくれたし、エミが軽く化粧もしてくれた。
 不思議なことに化粧をすると、顔の造作は似ていない筈の自分たちの顔が双子のように似る。ということは化粧をすれば自分も可愛くなったということなんだろうか。
「アーちゃん?」
「あ、ううん」
 エミの声にはっと我に返って、慌てて思考を現実に戻した。
 最近やけに自分の外見にこだわっているような気がする。どうしてなんだろう。
 中学の頃はエミと比べられたって気にもしたことがなかったのに。




 お昼ご飯はエミのお勧めだというイタメシ屋で食べて、お腹をこなすのを目的にまたぶらぶらと買い物に出たとき、見知らぬ人達に引き止められた。
「すいませーん、ちょっと良いですかぁ?」
 カメラを持った二人連れだった。男の人と、女の人。一瞬警戒したところに、エミが「あれ」と声を上げた。
「あら、あなたもしかして、エミちゃん?」
「そうです。ノンノンの佐々木さんですよね」
「まぁ、奇遇〜!一枚良いかしら。こちらの子は?もしかして双子だったの?」
 知り合いだったのか、とほっとしたところにいきなり自分に話題の矛先が向いて、愛実はびくっとする。
「妹のアーちゃんです。良いですよ、一枚くらい。アーちゃん、雑誌のストリートスナップなんだけど、良いよね?」
「え、う、うん」
 よく分からなかったけれど頷くと、はい寄って寄って〜と佐々木と呼ばれた女の人にエミと寄り添うように言われた。エミと手を握り合ってよく分からないポーズになったところで、笑って〜て言われ、笑えているのかも分からない表情を取る。
 カシャ、カシャ、と数枚撮ったところで開放された。
 その後エミと佐々木さんは服のトークに入ってしまう。
「この服、あそこのでしょ。すごく似合ってるわ」
「そうなんですよ、こっちは最近話題のあの店で…」
 元々口べたな上にまったく興味のない話題で、手持ち無沙汰で二人が話し終えるのを待っているとカメラマンのお兄さんが話しかけてきた。
「ねぇねぇ、お姉さんとは何歳離れてるの?」
「え…あの…年子、ですけど…」
「そうなんだ、双子みたいにそっくりだね」
「そ、そう、ですか…」
「エミちゃん最近すごい人気出てきたよね。顔も小ちゃくてスタイル良いし、彼女はこれからもっと大きくなるよ」
「はぁ…」
 何の話か分からなくて適当に相づちを打っていると、彼は一人で頷いている。
「君はモデルやらないの?」
「え」
 その言葉でやっと彼が何の話をしているのか気がついた。
 エミがモデルをやっているなんて初耳だ。いつから?
 もしかして最近ずっと忙しそうに出かけていたのはそのせい?
 お母さんは知っているんだろうか。多分、知らないと思う。自分が知らないということは、母が知らないと思って良い筈だ。
 エミはどうして今まで教えてくれなかったんだろう。
「アーちゃん、ごめん、盛り上がっちゃって」
「あ、ううん」
「じゃぁ、二人ともありがとうね。多分来月の分に載ると思うから」
 二人は次の被写体を探すために忙しなく去っていった。
 その後ろ姿を見送った後、愛実はエミを振り向いた。
「エミ…」
「あはは、バレちゃった?」


 とりあえず話をしようと近くのカラオケに入った。カフェに行っても良かったけれど、お腹がいっぱいだったので飲食店に入る気にはなれなかったのだ。
 それに、カラオケボックスなら室内で二人だけで話ができる。
「…どうして教えてくれなかったの?」
 隠していたことは一応後ろめたかったのか、エミはストローを噛みながらちらりと上目遣いで愛実を見た。
「だって絶対ママにバレたくなかったんだもん。アーちゃん、ママに言わないでくれる?」
「え、それは」
「お願い、お願い、アーちゃぁん」
 勿論お母さんに心配させないためにも言うつもりだったのだけど、必死に頼み込まれてうぅと言葉につまる。
「り、理由による。ちゃんとした理由があるなら、言わない」
「えぇー。理由も言わなきゃ駄目?」
「駄目。じゃなきゃ、言っちゃうからね」
 ぶーと頬を膨らませてエミは文句を言うので、きっぱり答えた。アルバイトは禁止なのだ。モデルなんて先生にバレたら退学になってしまうではないか。それでなくともカメラのお兄さんが、最近人気が出てきてると言っていた。
「絶対に誰にも言わないでね」
 真剣な顔でいうエミにこくりと頷いた。
「アーちゃん、エミね、何か自分を証明できる物が欲しいの」
「…え?」
 その言葉はあまりにもエミの口から出てくるには似つかわしくなくて、予想もしていなかった答えについ尋ね返してしまう。
「ど、どうして?エミは何でも持ってるじゃない。証明なんて必要ないよ」
 理不尽さを感じた。自分を証明できるものが必要なのは愛実のような人間だ。エミはなんでも持っている。可愛くて、友達も多くて、勉強もちゃんとできて。勉強しかできない愛実とは違う。
「アーちゃん。ママは美人だよね。年のわりに断然若く見えるし、それだけじゃなくて内面も美人だよね。教養もあって、優しくて、しかも良い大学出てて、仕事もできて、お金も持ってて」
「うん」
 どうして突然お母さんが出てくるのかは分からなかったけれど、頷く。
 そう、なんでも持っている人の鏡のような人だ。お母さんはとても恵まれた人。
「みんなママのことが大好きになる。パパも祥二パパもアーちゃんも、…みんな」
「でもエミもみんなに好かれてるよ。あたしからしたら、エミもママも同じタイプに見えるけど」
「でもあの人の一番はママなの!エミは一番になりたいの。エミはママを越したいの!」
 ばん、とエミがテーブルを叩く音が室内に響いて、沈黙が降りた。
 

Thursday, February 12, 2009

バレンタインの落とし穴 前編

 バレンタインも近くなった2月最初の週。
 どことなく世間も浮ついた雰囲気を醸し出しているのに、彼は周りと違って一人陰鬱そうにため息をついていた。
 休憩用の仕切り内でコーヒーを片手に、座っている彼を見たのは、偶然だった。
 きっと普段だったら恐れ多くて話しかけられなかっただろうけれど、あまりにも沈んだ表情だったので気になってしまって放っておけなかったのだ。
「主任」
「三浦か…」
 顔を上げて、こちらを見上げる彼の顔はやはり浮かない。
「どうかしたんですか?」
「いや、うむ」
 何か言い辛そうにコーヒーカップの飲み口を齧っている姿は少し珍しい光景だ。子供みたいで可愛いな、と思っていると彼が口を開いた。
「……ちょっと聞きたいんだが、やはり、バレンタインデーっていうのは、女の子にとっては大切な日なのかな」
「は?」
 あまりに突然な質問に、素で聞き返してしまうと、主任はすぐにしまったという表情になった。それを見て、こちらも焦る。
「あ、あの、そうですね、一般的に愛を告白する日ですから」
「そ、そうか、やはりそういうものか」
 バレンタインがどうかしたんだろうか。そういえば毎年たくさん貰っていたような気がしたけど。
「誰かに告白されたんですか?」
「いや、うむ。まぁ、違うんだが、その」
 なんだか歯切れが悪い答えだ。いつもはとても覇気のある人なのに。
「その、姪が、な」
「姪御さん?」
「チョコレートを作ると張り切っているんだ」
「はぁ、そうなんですか」
 主任は30歳くらいだから、姪御さんというと5歳くらいか、大きくても小学生くらいだと思うけど。小さいくらい可愛い女の子が頑張って主任のためにチョコレートを作っているのを想像するとなんだか微笑ましい。
「良いじゃないですか、可愛い姪御さんで」
「そうなんだ。可愛いんだよ、目に入れても痛くないくらい可愛いんだよ」
「は、はぁ」
 でれでれと言う彼に、言っては悪いが少し引いてしまう。家族の人、ロリコン疑惑とかないのかな。そんなことを思っていたら、主任はいそいそと携帯の写真を見せてくれる。
「わぁ、可愛い」
 主任の可愛がりようが分からなくもないかな、と思えるくらい可愛い女の子だった。うん、これは確かに。小学生なのかランドセルを背負っている。
「モモっていうんだけど、すごい良い子でな、バレンタインの意味を教えたらおじちゃんのために作ってあげるって張り切ってしまって」
「何か問題があるんですか?」
「俺は甘いものが苦手なんだ」
「え、そうだったんですか?いつもお土産とか貰ってるじゃないですか」
「家に持って帰って家族にあげたり、友達にあげたり」
 そんな他の人に回すくらい嫌いなんだったら一言言えば良いのに。
「いや、一度言ったんだが、皆忘れてしまうし、土産もらうたびに言うのも失礼だろう」
「まぁ、そうですね」
 お土産を貰う前に『甘いものはやめてくれ』ていうのは失礼かもしれない。
 その時、ぽっとあることを思い出した。
「主任、知っていますか?」
「ん?」
「人間が甘さを感じるのは、舌の先の部分なんですよ」
「え、あぁ、そうなのか」
「反対に苦さを感じるのは、奥の方なんですって。私、小さい頃から苦いお薬が苦手で、頑張って奥の方で飲み込もうとしていたんですけど、実はそれって逆効果だったんですよね」
 主任は最初何の話をしているのか分からなかったらしく、ぽかんとこちらを見ていたけれどそのうち気づいたのか、はっと顔を輝かした。
「つまり口の奥で含めばだったら甘さをあまり感じないってことか」
「まぁ、多少はってことですけど」
「そうかそうか。なんだ、そんな簡単な解決法もあったんだな。どうもありがとう、小野、君のおかげで少し心が軽くなったよ!」
 悩みが解決したのか、主任は立ち上がるとこちらの手を両手で握ってお礼を言った後、明るい足取りでその場を去っていった。
 握られていた手を、ふと見下ろす。
 一応ああいうのはセクハラに入るんじゃなかろうか。
 でも嫌じゃなかったから良いか。
 それよりも、姪御さんにビターチョコをお願いした方が主任にとっては効果的だったのではないかと思ったのは家路についてからだった。勿論、ビターチョコが嫌いな自分がそんなアイディアを思いつかなかったのは十分当たり前だと思うけど。

Sunday, February 8, 2009

愛とはかくも難しきことかな26

「優成、萌ちゃんは僕が連れて帰るから、お前は自分の迎えで帰れ」
「なんでそうなるんだ」
「僕は萌ちゃんを迎えに来たんだ。お前は迎えを呼んだんだろう」
 睨み合う兄弟の間で、萌は止めに入ることもできず、おろおろと立ち往生していると、克巳さんの停めた車の後ろにもう一台見覚えのある車が止まった。
「ほら、迎えが来た。お前はあっちの車で帰れ」
「兄さんはどうしてそんな意地が悪いんだ」
 御堂家の運転手の佐々木さんはメルセデスを降りて、こちらから数メートル離れたところで待機している。
 優成さんはしばらく沈黙した後、言っても引きそうにない克巳さんに、仕方なさそうにため息をついた。
「……ちゃんと家まで送り届けてくれるのか」
「勿論さ、父さんが待っているって言っただろう」
「分かった」
「ゆ、優成さん」
 ということは、私は克巳さんと帰りの車は二人きりということだ。それは絶対避けたかったのに。
「おいで、萌ちゃん」
 助手席のドアをわざわざ開けて促される。優成さんを言い負かして満足そうな克巳さんの笑みが、薄ら寒い。
「わ、わわ私も、優成さんと一緒に」
「萌ちゃん」
 優成さんに背を押され慌ててその腕にしがみつこうとすると、優成さんに目線で止められた。
「萌、大丈夫だから行け。……兄さんが本気で怒る前に」
 ぼそり、と付け足された言葉に、慌てて克巳さんの車に飛び乗る。
 克巳さんは佐々木さんがよくしてくれるように、乗った後車のドアを閉めてくれた。それから優成さんと二言、三言交わして運転席に乗り込んできた。
 エンジンをかける音だけが車内に響く。それから静かに車が発進した。

 落ち着かない。
 革張りの助手席は、佐々木さんのメルセデスと同じくらい座り心地が良い。送迎車でないせいかどことなく狭いけれど、輪っかが四つ並んだエンブレムは確か外国産の高そうなメーカーだった気がする。そもそも御堂家の人が安い国産車に乗っているわけはないし。
 ダッシュボードに消臭剤らしきシルバーの置物なんかがあるのは個人の車っぽい。今まで佐々木さん以外の運転する車に乗ったことがあまりなかったので、少し物珍しい感じがする。
「優成の友達の家はどうだった?」
「え、あ、あの、まぁ、良くして頂きました」
「そう」
 聞いてきたわりに、興味の無さそうな相づち。それ以上続けても意味がなさそうだったので、それだけで話を切った。
 怒っているらしい、というのは分かる。どうして怒っているのかいまいち分からないけれど。大体にして怒っていたのは自分ではなかったか。
 もそもそとシートベルトをいじくっていると、赤信号で車を一旦止めた克巳さんがこちらを見た。
「どうしたの、萌ちゃんらしくないね。落ち着かない?」
 そりゃぁもう。昨日の最後に啖呵を切って別れたのに、普通に接してくるあなたが気味悪くて仕方がないんです。落ち着かないに決まってるじゃないですか。
 優成さんがいなくなったせいか、克巳さんはまた元の穏やかな仮面を被り直したらしい。表面的には優しい兄を演じている彼の仮面。
「克巳さんは…」
「ん?」
 もそもそとシートベルトで遊ぶ指先をそのままに、聞いた。
「克巳さんは私のこと嫌いなのに、どうして優しい振りをするんですか」
 一瞬空気が凍った気がした。ほんの一瞬。克巳さんの顔を見上げると、相変わらず穏やかな表情。
「振りなんてしてないよ。僕は君に優しくしたいから、優しくしているだけ」
「嘘だ」
 本当に振りじゃないのなら、私の言葉に多少動揺しても良い筈なのに。克巳さんの顔には嘘の笑みだけ。本当に優しい人だったら、そんな顔しない。

Tuesday, February 3, 2009

愛とはかくも難しきことかな25

 矢田さんを見送って、しばらくテレビを見た後、10時を過ぎた頃に優成さんがやっと起きてきた。
「矢田は?」
「大学に行きましたよ」
「そうか。どうする、家に帰るか」
「はい」
 携帯で誰かに迎えを頼むと、優成さんは顔を洗うために洗面所に行った。
 昨日の服が一式入った紙袋を片手にいると、すぐにインターフォンが鳴る。迎えだと思って、壁についた画面を覗くと、思わぬ姿を見て仰け反ってしまった。反射的に隠れたくなったが、向こうにこちらの姿は見えてないことを思い出し、すぐに優成さんのところへ行った。
「ゆゆゆ優成さん、克巳さんが迎えに来てるんですけど」
「兄さんが?」
 タオルで顔を拭いていた彼も、まさか克巳さんが来るとは思っていなかったのか、少し驚いたようだ。
「どどどどうしましょう」
焦って尋ねる間にも、インターフォンが立て続けに鳴らされる。
その音に顔をしかめながら、優成さんは「とりあえず降りるか」と言った。


 矢田さんに昨晩借りた服のまま降りてきた二人を見て、マンションの入り口に立っていた克巳さんは眉根を寄せた。
 それから、つかつかと優成さんの近くまで行くと、腕を振り上げた。
 昨日の双子の様に叩いてしまうのかとはっと息をのんだ萌に、寸での所で優成さんが拳を受け止めた。
「兄さん、事情も聞かずに殴ることないだろう」
「無断外泊、しかも萌ちゃんを巻き込んで」
「一応連絡した筈だ」
「許可した覚えはない。……帰るよ、萌ちゃん」
 優成さんに止められた手を振り払い、それから克巳さんはこちらを振り向いて手を差し出した。その手を握る気はまったくなかったので、克巳さんの怒りが怖くて優成さんの背に隠れた。それだけ克巳さんは怒っていた。
 そして思った通り、差し出した手を無視した萌に彼は眉間に皺を寄せる。しかし強引に引きずって家に連れ帰られるかと思ったけれど、彼は落ち着いたままの態度で萌に話しかけた。
「萌ちゃん、父が心配してるよ」
 その言葉に心が跳ねた。兄弟に会いたくなくて家に帰らずにいたけど、そのことを御堂の父はどう感じただろう。きっと呆れられてしまった。駄目な子だと思われてしまったかもしれない。
 ぎゅっと優成さんの服の裾を握った。
 怖い。
 御堂の父にもいらないと思われたら。
 おかしいな。ついさっきまで御堂の家を出ると決心したばかりなのに。
 でも嫌われたくない。御堂の父のことは好きだし、唯一祖母が亡くなった後面倒を見てくれた人だったから恩も感じている。がっかりさせたくない。
「萌、父には俺から事情を話してやるから心配するな」
「優成さん……」
 萌の考えていたことを理解したのか、優成さんは安心させるように彼女の頭を撫でた。そして萌も信頼を示すように彼に撫でられて表情を緩める。
 その様を見て克巳さんは小さく舌打ちした。

Friday, January 30, 2009

愛とはかくも難しきことかな24

「え、はぁ、まぁ、御堂の家では一番好きですけど」
「そうじゃなくて、異性として」
「え、えぇ?私と、優成さん、一応血が繋がってるんですよ」
「まぁ、そうだよね」
 どうして御堂の兄弟といると、こうも色事に物事が進むんだろう。というよりも、私がおかしいのだろうか。普通、少しでも血が繋がっているのなら、恋愛対象からすぐに外されるものなんじゃないのだろうか。
 首を捻っていると、目の前にお皿が差し出された。
「はい、朝ご飯」
「え」
 トマトとチーズの入った小さなオムレツとサラダとトーストの乗ったお皿と、矢田さんを見比べると彼はカウンターの向こうで「どうぞ」と言った。
「矢田さんは、ご飯は?」
「僕は朝はコーヒーだけなんだよね」
「そう、なんですか。……すみません、気を使わせてしまって」
「お客さんがそう言うこと気にしないの。それよりも口に合うといいけど」
 用意されたフォークでオムレツの端を切り取って口に運ぶと、ふわふわでとても美味しかった。
「お、美味しいです。とても」
「そう?それならいいんだけど」
 彼はキッチンカウンターの向かいのスツールに腰掛けて新聞を平げた。その様が大人っぽくてぼぅと見惚れてしまう。
「僕、あと30分くらいで出かけるんだけど、優成が起きるまで適当に寛いでてくれて構わないからね」
「あ、大学ですか?」
「うん。昼には戻るけど、それまでに帰るんだったら優成がスペアキーの場所知ってるから、鍵かけて帰ってね」
 しばらく黙々と新聞を読んでいた彼は、めぼしいところは読み終えたのか、またそれを奇麗に畳み直した。
 丁度トーストの最後の一口を咀嚼したところで、口の中のものを飲み込むと、「ごちそうさまでした」と伝えた。
「お粗末様でした」
 すぐに皿をさらっていきそうな矢田さんに、慌てて手を振る。
「あ、片付けやります。学校に行く支度とか、あるんじゃ」
「はは、だからお客さんはそんなこと気にしなくても良いの」
 彼はそう言って手際よく、水洗いした食器を食洗機に片付けていった。その様子を見ると、確かに自分が片付けるよりは効率が良さそうだな、と納得しつつ、申し訳なくて身を小さくする。
「本当に気にしなくて良いんだよ。優成なんか、滅多に片付けなんて手伝わないし。昨日は萌ちゃんが手伝ってくれたから、グラスとか運んでくれたけど」
「え、それは」
 成人した大人としてはどうなの、と思わなくもない。
「御堂家の人は、そういう点ではちょっと付き合い辛いかもね。萌ちゃんみたいに、一般家庭で育った子には」
「……そうですね、いつも価値観の違いとかに悩まされていますね」
「はは。そうだと思った」
 矢田さんがカウンターを拭こうとしていたので、台拭きを受け取って自分で拭いた。その間に、矢田さんは残っていたコーヒーカップをまた食洗機に入れる。
 こんな風にご飯の後片付けを手伝うなんて、どれくらいぶりなんだろう。
 その時、ふっと頭に浮かんだ想像に思わず笑ってしまった。
「どうしたの?」
「想像していた兄弟像と全然違うなって思うとつい。私、兄弟が居たら、きっと一緒にご飯作ったり、するんだろうなって思ってたから」
「でも実際はきっと包丁すら握ったことなさそうな4人だもんね」
 その矢田さんの言葉に、二人でお腹を捩って笑った。まったくその通りだから。
 矢田さんみたいな人が兄になっていれば、きっと毎日楽しかっただろうな。奇麗で、格好良くて、優しくて、昔の少女マンガに出てきそうな『お兄ちゃん』の理想像だ。きっといっぱい甘えてしまっていただろう。

Thursday, January 29, 2009

愛とはかくも難しきことかな23

「俺は、お前が御堂の家に居る事は、良いことだとは思えない」
 予想していた筈の答えなのに、その返事にずきりと胸が痛んだ。仲良くなった今なら認めてもらえると本当は心の底で思っていたのかもしれない。
 馬鹿だな。
 最初に言われていた筈なのに。
「大体、お前は養子縁組を受け入れられないんだろう」
「だって、私の記憶では確かに父が確かに居たんです。DNA鑑定なんて言われても、突然現れた人を父だなんて受け入れられません」
「まぁ、そうだろうな」
そこまで言ってから、ふと彼らも同じ気持ちなのかな、と思い至る。突然現れた自分みたいな人間を妹だと言っても、彼らだって認められないのだ。それこそ、同じ姓になっていればまだしも、法律上は未だ他人。
「…やっぱり、養子縁組も受けないのに、御堂の家に居るなんて迷惑ですよね」
 いつまでも、養子に入ることもせず御堂の家に居座るつもりだった自分が悪いのだ。今こうして出ていく決意が出来ただけでも、良かったのかもしれない。そうでなければ、いつまでも宙ぶらりんのままだった。
 明日、御堂の父と出来そうだったら話をしてみよう。そして自分の立場をはっきりさせて、金銭面で頼ることが出来るのだったらお願いして。それが駄目なのだったら、祖母の残してくれたお金で公立の高校を卒業して独り立ちしよう。
 祖母を亡くしたとき、御堂の父が現れなかったら辿っていた筈の道なのだから。
「萌、俺が言いたかったのは、そういうことではなく」
「いいんです、優成さん。私、決めましたから」
「萌……」
 そうと決めたら眠ろう。眠って、元気に起きて、御堂の父に話に行こう。


 そう思ったのに。
「眠れなかった……」
 朝日が差し込んで1時間ほどした頃、部屋の外で物音が聞こえてベッドを出た。優成さんはぐっすり眠っているのか、寝息と共に掛け布団が上下する。
 大人でも寝ると子供と変わらないんだな、と思うと少しおかしい。こんな風に寝顔を見れるのも最後かな、と思うとなんとなく悲しくなる。でもじっと見つめているのも失礼かと思い、ベッドから離れた。
 寝室の扉を開いてリビングに行くと、キッチンに矢田さんが居た。
「おはよう、萌ちゃん」
「おはようございます」
 彼は昨日遅くまで起きていたのに、目覚めが良いのかその姿は早朝でも爽やかに見えた。
「もっと寝てても良いんだよ」
「あ、いえ。なんだか眠れなくて」
「そうなんだ。コーヒー飲む?カフェオレの方がいいかな?」
「牛乳が入ってるやつ……?」
 コーヒーの横文字の名称なんていまいち良く分からなかったのだけど、適当に聞くとそうだよと教えてくれた。
 コーヒーメーカーではなく、ステンレスのポットで湧かしたお湯を滑らかにカップの上の置いたドリッパーに注ぐ様を、カウンター脇に座ってぼんやりと眺める。
 御堂家はお手伝いさんが台所を仕切っているせいか、ダイニングとキッチンは分けられていて、こうやって誰かがキッチンを使って何かをしているのを見るのは久しぶりな気がした。
「どうぞ」
「いただきます」
 置いてあった角砂糖を2つほど入れて混ぜ、カップを口に運ぶ。
 コーヒーの味なんてよく分からないけど、牛乳とコーヒーのバランスが美味しくてちびちびと飲んだ。矢田さんは朝ご飯の支度なのか、トースターにパンを入れたりトマトを切ったりしている。
「萌ちゃんはさ、優成のことが好きなの?」
 矢田さんを眺めていると突然そんなことを聞かれた。

Wednesday, January 21, 2009

愛とはかくも難しきことかな22

 広いベッドで、優成さんはこちらを気遣ってか反対側の端の方に身を寄せている。抱きつかれるように寝られても困るけど、もうちょっと真ん中まで場所を取ってもいいのに。
 くいくい、と彼のTシャツの裾をひっぱるとびく、と彼が震えた。
「な、なんだ」
「もっと、こっち来ないと落ちてしまいませんか」
「いや、ここで大丈夫だ」
「でも……」
 言いかけて、ふと思いついたアイディアに、優成さん側に身を捩って寄せた。
「な、なんでこっちに来るんだ」
「掛け布団を優成さんが引っ張るから、私の側のがなくなってしまうんです」
「俺は布団はいらないから、お前が使え」
「優成さん!」
「こら、しっ」
 頑なに端に寄って寝ようとする彼につい大きな声を上げてしまうと、彼にぱっと口を塞がれた。どうも自室で寝ている矢田さんを気遣ってのことらしい。
 もがもがと塞がれた口を動かすと、肩肘をこちらの枕元について上から半分押しかかる姿勢になっているのに気づいたのか、彼はぱっと身を起こしてまた距離を取った。
「迷惑でしたか?」
「何が」
 聞くと目を逸らした。質問の意味は分かってるくせに。
「一緒に寝るのがお嫌でしたら、私ソファで寝ますから」
「ちょ、なんでそんな話になってるんだ」
 掛け布団を優成さんにかけると、身を起こした。ベッドから降りようとしていたこちらの腕を引き止めて、優成さんは慌てて言う。
「分かった、寝るから。真ん中で寝れば良いんだろ」
「真ん中はちょっと…」
「二分の一あるスペースを最大限生かして寝る」
 そう言うなり萌を布団の中に引き込んで寝かしつけると、自分はベッドの真ん中にほど近い場所で萌に背を向けて横向きになった。
 ばれないように彼が着ているTシャツの裾を小さく握って、おでこを寄せた。暖かくて大きくて、それから心音が小さく脈打っているのが聞こえた。
「優成さん」
「早く寝ろ」
 彼は萌にはそう言ったものの、寝辛いのか、何度も枕の位置を変えたり掛け布団を肩まで上げたり暑くなったのかまくったりしている。
「……優成さんは、私が御堂の家に居る事は反対ですか」
 背を向けたまま優成さんは、一瞬動きをとめた。
 それから、ぎこちない動作で背中に張り付いた彼女を振り返る。顔を背中にぴったりと寄せているせいで、その表情は伺えない。その様に大きくため息をつくと、身体を反転させて、萌の方を向いて頭を起こす。肘をついて彼女の顔を覗き込んだ。
 呼吸をすると人の香りがした。優成さんの、男の人の香りだ。もうほとんど覚えてはいないけれど、小さい時に父親に抱かれたときのことがうっすらと思い起こされる。少しだけ速い鼓動が、直に耳に響いてその時初めて彼が緊張していることに気がついた。

Monday, January 19, 2009

恋愛勘違い事情 02

 寝坊をしてしまった。
 走るとき足に絡み付くスカートがとてもうざったいし、革靴は本当に走りにくい。これがミニスカートで、スニーカーを履いていて、ついでに他校の子が持っているような斜めがけのスクールバッグだったらどれだけ走り易いだろう。
 必死の思いで階段を駆け上がり、今まさに閉まろうとしている扉に身を滑り込ませた。
 ぎりぎりセーフ。
 なんとかいつも取っている朝の電車に間に合って、ほっと息をついた。
 この電車を逃していたら学校に遅刻していたかもしれない。校則に厳しいうちの学校は、遅刻にも厳しいのだ。キリスト教系なので、礼拝のため普通の学校よりも10分ほど早く学校が始まるし、起きるのが苦手な自分には朝は本当に辛い。

 学校の最寄り駅についた頃に、やっと動悸と息切れが収まった。運動不足なんだろうか。プラットフォームに降りながら、熱い頬に手を当てる。
 朝の電車では、あの人には会わないのだが、そのことに今更ながらに感謝する。
 あんな格好悪い姿を見られてしまっていたら、きっと恥ずかしくて帰りの電車では顔を上げられないかもしれない。
 手の甲がひんやりとしていたので汗ばんでいた額にあて、発進する電車を背に階段を上った。
 もうすでに朝の一運動を済ませたような気分なのに、これから駅から高校へ続く通学坂を上らなければならないと思うとうんざりだった。
 しかも最悪なことに今日は月に一度来る女の子の日でもある。
 苛々する気分に拍車がかかり、眉根を寄せながら歩いた。

--------

 今日は朝礼があるので、生徒会のミーティングのため、少し早めに家を出た。
 週一くらいの頻度でこの時間に通うのだけど、実は嬉しいことがある。この時間の電車には、あの子が乗っているのだ。
 お互い高校の最寄り駅の出口に一番近い車両を選ぶので、帰り道とは違って同じ車に乗ることはないのだけれど、電車を待っている姿は見える。
 うきうきとした気分で早めに駅に行ったのだけど、その日は生憎と彼女の姿がプラットフォームにはなかった。
 電車が到着して仕方なく乗り込む。もしかしたら今日は違う時間に登校したのかもしれない。それか今日は休みなのかも。朝礼でも風邪が流行っている由が保険委員からの知らせにあった筈だし、彼女もかかってしまったのかもしれない。
 そんなことを思いながら、その日の朝はもう会うことを諦めていたのだけど。

 彼女の高校の最寄り駅で電車が停車したとき、水色のワンピースの一群に紛れるように探していた姿を見つけた。
 どうやら同じ電車で来ていたらしい。もしかすると駅に来るのが遅れていただけだったのかもしれない。なんとなく嬉しい気分で彼女を眺めていると、ふと彼女の頬がいつもより赤いことに気がついた。
 しんどそうに額に手をあてて階段を上る姿に、自分のさきほどまでの予想が遠からずだったことに思い至る。
 きっと体調が悪くて駅に来るのが遅れたのに違いない。
 電車が出発する間際に見た彼女の顔はなんだか辛そうだった。可哀想に。早めに早退していることを祈っていよう。今日の放課後は会えないかもしれないな。

Saturday, January 17, 2009

恋愛勘違い事情 01

 わたしには好きな人がいます。
 その人はとっても格好良くて、頭も良くて、性格も良くて、物語の中の王子様のような人です。
 わたしはそんな彼をいつも見つめているのですが、彼はわたしのことを知りません。


 電車が小気味よく揺れる。
 そんなに混んでいるわけでもなく、でも席は埋まっていて、立っていなければならない放課後の電車。部活で帰る人はきっとラッシュアワーで帰るのだから、わたしはまだ運が良い方だ。
 私が降りる駅は、住宅街の真ん中のようなところで、駅のホームの出口が一カ所しかない。だから、帰りの電車は必然的に、降り口に近い一番後ろの車両に乗る。
 同じ駅で降りる彼もいつも同じ車両に居た。
 そして、今日も。

 某アイドル事務所に居そうな、甘いマスクとくしゃくしゃの髪。ああいう髪型が最近の流行なのかな。芸能人で似た様な髪型をしている人がいたような気がする。少し長めの前髪は軽く横に流している。
 県内でも結構有名な進学校の制服の胸元には、校章と並んで生徒会と書いてある金色のバッジが飾られている。それを見つけたのは、たまたま混んでいた日、横に並んだときに目の前にあったからなのだけど。
 彼のあだ名はコンちゃんらしい。たまに友達を連れているところに遭遇するので、耳を峙てていたのだ。名字が近藤とかなのかな。下の名前は未だに謎だ。

 車両の向かい合う扉のもう一つに立つ彼は、イヤフォンで音楽を聞きながら窓の外を眺めている。立っているだけで、絵になる人だ。
 それに比べて自分は。
 考えると悲しくなるほど、普通の女子高生。
 一応お嬢様高校と呼ばれる私学の学校に通っているけれど、校則が厳しくて膝下丈のスカート。ワンピースにカーディガンというスタイルだから、確かにお淑やかに見えるかもしれないけれど、ミニスカートに茶髪でアクセサリーをつけている子達に比べたらかなり野暮ったい。髪型も、肩よりも長い子はポニーテールかおさげにくくらなければいけないし、昭和かと聞きたくなるような古くささだ。
 はぁ、とため息をついた。
 これで自分も頭が良かったり、良家の子女だったり、目を見張るような美人だったら良かったのに。生憎と、普通の家庭に生まれた、並の頭と容姿の持ち主である。
 趣味は猫と遊ぶことで、あまり社交的な性格でもないし。
 これじゃぁ永遠に片想い決定だ。あぁ、泣きたい。


--------

 最近、気になる子がいる。
 その子は結構可愛くて、清楚で可憐という言葉が似合いそうな、とても女の子らしい子だ。
 俺がその子のことをいつも見ていることを友達は知っているけど、彼女はきっと気づいてもいないだろう。

 電車が小気味良く揺れる。
 いつも取っているこの時間の電車は、各駅停車のせいかあまり混まない。それでも空席はなかなかないけれど。
 俺が降りる駅は、繁華街とはほど遠い住宅街にあって、駅のホームの出口が一カ所しかない。だから、帰りの電車はいつも、降り口に近い一番後ろの車両に乗る。
 同じ駅で降りる彼女もいつも同じ車両に居た。
 そして、今日も。

 ちょっと昭和のアイドルを思い起こさせるような、化粧っけのない幼い顔。少しぷっくりした赤い唇が、可愛くもありちょっと色っぽくもある。胸元には二つにくくられた髪が流されていて、黒く艶やいていた。
 全国でも有名なお嬢様学校の制服は彼女によく似合っていた。水色のワンピースは膝丈で、一度ホームで電車を待っているときに風でふわりとめくれたは、思わず胸が高鳴ってしまった。勿論中身は見えなかったのだが、普段見えない白い太腿が露になったときは、同じ学校の女子には感じられない喜びがある。
 彼女の名前は、岡本まゆみというらしい。彼女はいつも革の鞄とは別に、手作りらしい手提げを持っているのだが、その端に名前が刺繍してあったのをこっそり盗み見た。

 彼女は向かいの扉の傍で、扉横のバーを軽く掴んでで身体を支えながら、姿勢よく立っていた。両足は肩幅で揃えられていて、扉にもたれかかることもなく、背筋はぴんと伸びている。
 その姿はまるで周りの世界から切り離されているような印象を与える。
 きっと良いところの家柄なのだろう。自分とはまったく釣り合いが取れなさそうな。母子家庭で、昔は生活保護を受けていたくらい貧乏だったせいか、いつまでも貧乏性の抜けない自分とは違う世界の住人なのだろう。
 そんなことを考えていると、彼女がはぁ、とため息をついた。
 何か悩み事でもあるのだろうか。最近彼女はよく沈みがちな表情をしている。彼女みたいなお嬢様だと、いろいろとしがらみが多いのかもしれない。仲良くなれたら相談に乗ったりしてあげられるけど、それはまた夢のまた夢なのかもしれない。

Sunday, January 11, 2009

愛とはかくも難しきことかな21

 はっと目を見開くと、部屋の中はまだ暗かった。
 ベッドサイドの近くの時計で確認すると、夜中の2時半。まだ3時間も寝ていないようだった。
 耳を澄ますと、人の話し声がした。二人はまだ起きているようだ。
 そろりと客室から抜け出して、廊下を辿る。リビングに近づくに連れて、優成さんの声がはっきりと聞こえた。
「だから、信用できないって言ってるだろう!可哀想じゃないか、まだ子供なのに。……だから、それが間違ってるって」
 リビングに続く扉を開けると、小さく軋む音がした。それに気づいて優成さんが振り返る。それから電話口に向かって「とにかく、明日電話するから」と言って手に持っていた携帯電話を切った。
「すまない。起こしたか?」
「いえ、嫌な夢を見て」
 そう言うと、優成さんに手招きされて彼の座ってるソファに近づいた。
 矢田さんもその場に居て、向かいのソファでグラスを傾けていた。彼は結構飲んでいるのか、頬が薄らと赤らんでいた。
「萌ちゃんも飲む?」
「でも、未成年ですから」
「ふふふ、気にしなくても良いのに」
「矢田、お前もそろそろ止めにしないと、明日大学あるんだろ」
 絡み酒なのかな、と疑問に思ったとき、優成さんが口を挟んだ。
「あーそうだ、ミーティングあるんだった」
 その言葉に少し酔いが覚めたのか頭を掻きながらソファに沈めていた上体を起こす。優成さんがテーブルの上のグラスを片付け始めたので、萌もならって散らかっていた皿やお菓子類をまとめた。
「御堂はどこで寝る?」
「ソファでいい」
 その言葉に客室は一つしかないのだと気がついたので、慌てて口を挟んだ。
「優成さんは大きいから、ベッド使って下さい。私だったらソファでも十分だし」
 矢田さんが座っていたソファは、ふかふかで大きいのだけど、兄弟の中でも一番がっしりした体型の優成さんには少し狭そうなのだ。しかし、すぐに矢田さんに反対された。
「女の子がソファで寝るなんて駄目だよ、風邪引いちゃうよ。それなら僕のベッドを優成と、半分こするから」
「それは俺が遠慮したい」
「あはは」
 優成さんの肩に腕を回して言う矢田さんの身体を引き離しながら、優成さんが嫌そうに言った。矢田さんはそんな彼を見て笑っている。
「じゃぁ、二人でベッドをシェアしたら」
「馬鹿。それこそ、駄目だろう」
「いいじゃないか。ねぇ萌ちゃん?」
 矢田さんの言葉に私が頷いて優成さんを見ると、優成さんはふと黙り込んだ。
「別に変なことするわけじゃないだろう」
「……する、しない、の問題じゃないと思うんだが」
「いいじゃないか。一緒に寝てあげれば、怖い夢見ても、すぐに優成を起こせばいいんだから。なんなら別に僕が添い寝してあげても良いんだよ」
 矢田さんのその言葉に、優成さんは渋々承諾した。
 
 疲れたので翌朝にシャワーを浴びると言う優成さんは、歯だけ磨いてベッドに入った。
「嫌だったら言うんだぞ。すぐにソファに移るから」
「大丈夫ですから寝て下さい。優成さんも明日大学でしょう?」
「俺はないぞ。明日は土曜日だろ、忘れたのか?」
 そういえば明日は週末だった。風邪を引いていて、今週数日学校を休んでいたせいか、曜日の感覚が狂ってしまっているようだ。
「あ、でも、土曜日は剣道の日じゃ」
「稽古は夕方からだから気にするな」
「はい…

Monday, January 5, 2009

愛とはかくも難しきことかな20

「そういえば僕のもので良ければ着替える?ドレス姿じゃ肌寒いし居心地悪いでしょ」
 言われてまだ胸元の開いたドレスを着ていたことに気がつく。
 しかし会ったばかりの優成さんの友人に着替えを借りるなんて失礼ではないか、と優成さんをあおぎ見ると彼は矢田さんの提案に頷いた。
「そうしてやってくれ。俺にもズボンかなんか貸してくれないか」
「いいよ、サイズが合うか分かんないけど。ついでにシャワーも浴びる?確か友達の忘れ物の化粧落としとかもあったし、歯ブラシの代えが余ってたよ」
 矢田さんに着替えとその他一式を渡されて、洗面所に入った。
 やっと似合っていないドレスを脱げてほっとできる。
 ついでに目の下に黒く溜まっていたマスカラの汚れも濡らしたティッシュで拭った。今までこんな顔をホテルの人やハイヤーの運転手や矢田さんに見られていたかと思うと、穴を掘って入りたくなる。
 化粧落としのボトルの裏面を読みながら顔を洗って、シャワーを浴びてすっきりしてリビングに戻ると、優成さんと矢田さんは二人でお酒を飲んでいた。
「おかえり。そうしてると年相応だね」
 少しサイズの大きい矢田さんのトレーナーとショートパンツの中で泳いでいる姿を見て、彼はくすくすと笑いながらそう言った。
「あのドレス、似合ってませんでしたから」
「そんなことはないよ。ちゃんと似合っていたよ。ねぇ優成」
「まぁ、化粧と髪型がちゃんとしていたときは、大人びて見えたな」
 二人にそう言われて少しだけ気分が浮上する。勿論、お世辞なんだとは分かってはいるけど。
「それよりも、矢田に客室を用意してもらったから、お前はもう休め」
「優成さんは?」
「俺は矢田としばらく飲むから気にするな。明日、起きたときにどうするかもう一度考えておくんだ」
「はい……」
 そう言われて、今日こうやって矢田さんの家に泊まるのは一時しのぎでしかないんだと再認識する。
「まぁ、僕は別に萌ちゃんが何日泊まろうと構わないから。あまり気負わないようにね。おやすみ」
「おやすみなさい」
 二人に寝る挨拶をして、教えてもらった客室に入った。
 突然やってきたのに奇麗に整えられているそのベッドに寝転がると、目を閉じた。
 さきほどまでうたた寝していたからそう簡単には眠れないかもしれないと危惧した通り、すぐには眠れなかった。
 閉じた瞼の裏に、嘲笑う双子と克巳さんの姿が浮かんでは消えていく。優成さんも3人の仲間じゃないとどうして言い切れるだろう。今だって矢田さんと何か悪巧みをしているのかもしれない。耳を済ませば、声を落として喋る二人の話し声が聞こえてくる。ときたま上がる笑い声に、もしかしたら自分を笑っているのかも、と疑心暗鬼になってしまう。
 そんな不安なことばかりが頭をぐるぐると回って、ぎゅっと目を瞑った。
 どうしたら良いんだろう。
 おばあちゃん。

 ———おばあちゃん。
 そもそも私は一体誰の子供なの。
 本当に御堂と母の子供なの。
 それともやっぱり両親の子供なの。
 それとも、御堂と誰かの間にできた子供で、おばあちゃんのところで貰われた子供なの。

 私、何も聞いていない。
 引き取られた時から、聞きたくなくて意識的に尋ねないことにしていた。おばあちゃんの手紙にも何も書いていなかったから、御堂の父が言うことを信じていたけど。でも御堂の父が私の母に当たる人の話を聞いた覚えもない。

 私は、誰なの。

 もう何度目になるのかは分からないけれど、涙はまだ枯れていなかったらしい。後から後から溢れてくるのをシーツに目元を押し付けて拭った。