Thursday, February 12, 2009

バレンタインの落とし穴 前編

 バレンタインも近くなった2月最初の週。
 どことなく世間も浮ついた雰囲気を醸し出しているのに、彼は周りと違って一人陰鬱そうにため息をついていた。
 休憩用の仕切り内でコーヒーを片手に、座っている彼を見たのは、偶然だった。
 きっと普段だったら恐れ多くて話しかけられなかっただろうけれど、あまりにも沈んだ表情だったので気になってしまって放っておけなかったのだ。
「主任」
「三浦か…」
 顔を上げて、こちらを見上げる彼の顔はやはり浮かない。
「どうかしたんですか?」
「いや、うむ」
 何か言い辛そうにコーヒーカップの飲み口を齧っている姿は少し珍しい光景だ。子供みたいで可愛いな、と思っていると彼が口を開いた。
「……ちょっと聞きたいんだが、やはり、バレンタインデーっていうのは、女の子にとっては大切な日なのかな」
「は?」
 あまりに突然な質問に、素で聞き返してしまうと、主任はすぐにしまったという表情になった。それを見て、こちらも焦る。
「あ、あの、そうですね、一般的に愛を告白する日ですから」
「そ、そうか、やはりそういうものか」
 バレンタインがどうかしたんだろうか。そういえば毎年たくさん貰っていたような気がしたけど。
「誰かに告白されたんですか?」
「いや、うむ。まぁ、違うんだが、その」
 なんだか歯切れが悪い答えだ。いつもはとても覇気のある人なのに。
「その、姪が、な」
「姪御さん?」
「チョコレートを作ると張り切っているんだ」
「はぁ、そうなんですか」
 主任は30歳くらいだから、姪御さんというと5歳くらいか、大きくても小学生くらいだと思うけど。小さいくらい可愛い女の子が頑張って主任のためにチョコレートを作っているのを想像するとなんだか微笑ましい。
「良いじゃないですか、可愛い姪御さんで」
「そうなんだ。可愛いんだよ、目に入れても痛くないくらい可愛いんだよ」
「は、はぁ」
 でれでれと言う彼に、言っては悪いが少し引いてしまう。家族の人、ロリコン疑惑とかないのかな。そんなことを思っていたら、主任はいそいそと携帯の写真を見せてくれる。
「わぁ、可愛い」
 主任の可愛がりようが分からなくもないかな、と思えるくらい可愛い女の子だった。うん、これは確かに。小学生なのかランドセルを背負っている。
「モモっていうんだけど、すごい良い子でな、バレンタインの意味を教えたらおじちゃんのために作ってあげるって張り切ってしまって」
「何か問題があるんですか?」
「俺は甘いものが苦手なんだ」
「え、そうだったんですか?いつもお土産とか貰ってるじゃないですか」
「家に持って帰って家族にあげたり、友達にあげたり」
 そんな他の人に回すくらい嫌いなんだったら一言言えば良いのに。
「いや、一度言ったんだが、皆忘れてしまうし、土産もらうたびに言うのも失礼だろう」
「まぁ、そうですね」
 お土産を貰う前に『甘いものはやめてくれ』ていうのは失礼かもしれない。
 その時、ぽっとあることを思い出した。
「主任、知っていますか?」
「ん?」
「人間が甘さを感じるのは、舌の先の部分なんですよ」
「え、あぁ、そうなのか」
「反対に苦さを感じるのは、奥の方なんですって。私、小さい頃から苦いお薬が苦手で、頑張って奥の方で飲み込もうとしていたんですけど、実はそれって逆効果だったんですよね」
 主任は最初何の話をしているのか分からなかったらしく、ぽかんとこちらを見ていたけれどそのうち気づいたのか、はっと顔を輝かした。
「つまり口の奥で含めばだったら甘さをあまり感じないってことか」
「まぁ、多少はってことですけど」
「そうかそうか。なんだ、そんな簡単な解決法もあったんだな。どうもありがとう、小野、君のおかげで少し心が軽くなったよ!」
 悩みが解決したのか、主任は立ち上がるとこちらの手を両手で握ってお礼を言った後、明るい足取りでその場を去っていった。
 握られていた手を、ふと見下ろす。
 一応ああいうのはセクハラに入るんじゃなかろうか。
 でも嫌じゃなかったから良いか。
 それよりも、姪御さんにビターチョコをお願いした方が主任にとっては効果的だったのではないかと思ったのは家路についてからだった。勿論、ビターチョコが嫌いな自分がそんなアイディアを思いつかなかったのは十分当たり前だと思うけど。

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