Sunday, August 2, 2009

貴方と私の境界線05

ソファに座って河野様はお水、私はカルーアミルクというコーヒーベースのアルコールを牛乳で割った飲み物を出してもらった。
最初にこの家に同じように仕事帰りに招待されたときコーヒーか紅茶を勧められて、夜はカフェイン系は飲まないようにしているというとこれを出された。甘くて美味しいし、ほろ酔い気分で家に帰るとよく眠れるので気に入っている。
しかし、いつもはコーヒーを飲まれる河野様がお水を口にしているのに首を傾げると、彼は苦笑いを浮かべた。
「今日は田川様にたくさん飲まされてね。ちょっと水で流さないと、明日ひどいことになりそうだから」
そう言いながらも彼はあまり酔っているようには見えないけれど。
そう思っていると、隣に座った彼が肩を抱き寄せて、くっついていた身体が余計に密着する。
見上げると、河野様にちゅっと口づけられた。
あぁ、でも、そういえばアルコールの匂いがいつもよりする。
あまり香水をつけなくて煙草も私の前では吸われないので、河野様はいつも服から香る洗濯洗剤と男の人の体臭の入り交じった香りがする。加齢臭とかではなくて、ただ女の子と違ったどこか包まれるような匂いだ。もしかするとフェロモンと言うのかな。
でも今日はちょっと違う。
アルコールの匂いの他に、田川様が吸われるからかほんのりと煙草の香りがシャツにしみこんでいる。
あと、ほのかに香水の香りもした。それが誰のものかは、部屋で配膳をしていたときに嗅いだことがあるからすぐに分かった。
「まつり?」
「はい、なんですか」
少し暗くなってしまった表情に慌てて笑みを浮かべ直した。
馬鹿だなぁ。別に二人が抱き合ったわけじゃないことくらい、解っているのに。でも嫉妬してしまうのは、あまりにも彼等がお似合いだったからだ。今日の会合も上手く行ったのかな。
「いや、なんでもない」
「はぁ」
「それより、…おいで」
腰を引かれて抗う間もなく彼の膝の上に向き合うように乗せられた。
今日は白いふんわりとしたスカートを履いていたから、難なく彼の上に馬乗りになれたけれど、ソファの上で足を開いて座ると膝までスカートがめくれあがって恥ずかしい。
「河野様…」
「この状態でそう呼ばれるのも背徳的で良いけどさ。でも何回志信だって言い直せば良いのかな?」
「ご、ごめんなさい。信夫、さん」
何度言われても慣れない。
背徳的に感じるのはこちらの方だ。
河野様は店の大事なお客様で私がこんな風に接してはいけない人なのに。
「悪い子には、おしおきしても良いのかな」
そう言って罰が悪そうに顔を逸らした私の腰のくびれ辺りを何度かその大きな手で撫でたあと、するりと服の裾から中に入り込んでくる。
「河野様、私たち、明日もお仕事が」
おしおきの意味に気づいて、慌てて胸の下まできていた手を押さえて止めると河野様はあからさまに眉をしかめた。そして自分もしまったと口を押さえる。
「そんなに僕の名前を呼びたくないのかな」
「頭では解ってはいるんですけど。ただ、河野様はお客様だから」
咄嗟に出てくるのが様付けで良いじゃないか。そうすれば店の誰かに思わぬところで出会っても様付けだったら怪しげに思われないかもだし。
「まつりはいつもそうだよね。店、客、それから周りの目」
それの何がいけないの。
今の仕事は私が苦労して手に入れたものだもの。
中卒資格で雇ってくれるところは本当に少ない。アルバイトはいくらでもできるけれど、自分だけのお給料で十分に暮らせるようになったのはつい最近のことだ。
毎月の家賃と生活費を稼いで税金を払って残りを貯蓄に回したら遊べるお金なんてほとんどなかった。高校、大学と進学して行った友達とは段々話が合わなくなって会う数も減った。
でも今は違う。
正社員雇用になったから生活で保証される特典も多くなったし、十分なお給料も貰えるようになった。もう明日怪我をしたらどうしよう、大きな病気になったらどうしようと不安になることもなくなった。親戚の人達にお金を借りることもしなくて良い。
「私は、河野様とは生きている世界が違うんです」
河野様を知れば知るほどそう思う。
中学の卒業資格しか持っていない自分と違って彼は大学院まで行っている。留学経験があって英語もぺらぺらで、実家は東京の一等地。両親は健在で、父親は結構有名な会社の役員で母親は趣味で料理教室を開いているらしい。一人居る兄はお医者さんだとか。
自分のことを喋るのを憚ってしまう私と違って、彼は自分の経歴に恥じることなんて一つもないんだろう。
「何が違うんだ。君は料亭で働いて僕は会社員だけど、こうやって抱き合ってる僕らがどんな違う世界に居るって言うんだ」
彼の膝に跨がったままの私の腰を彼がぎゅっと掴む。
「全然違いますよ…」
そう言って彼の目を覗き込むと、彼は誤摩化すように素早く私に口づけた。
「僕のこと、好き?」
「好きですよ」
「僕もだよ。それだけで僕たちが一緒にいる十分な理由じゃないか」
—――全然、十分じゃないですよ。
でもその言葉は長いキスに妨げられて結局口には出せなかった。

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