Tuesday, July 21, 2009

貴方と私の境界線03

最初はチップをくれる懐の暖かい顧客だと思って接していた。
「楠木さん、これプレゼントがあるんだけど」
「まぁ、いつもありがとうございます」
この料亭では客からチップを貰ったらそれは全て店に渡り、お礼のお菓子包みをいつも帰りに手渡すことになっている。
だからその時も同じように店に何か持ってきてくれたのかと思って軽く受け取ろうとしたら、突然手を握られた。
「これは、君だけのために特別に買ったんだ。受け取ってくれるよね」
「あの、河野様、店のお約束でお客様から個人的には物を受け取っては駄目なのです。お気持ちは嬉しいのですが…」
この時本当は嬉しくて、貰えるものなら貰いたかったけれど、心中泣く泣く断ったのだ。河野様はお優しくて格好が良くて、担当につけることをいつも楽しみにしていた。どうにか嫌われないように、丁寧に丁寧に断ると、彼も分かってくれたのかその時は残念そうに引き下がってくれた。
しかし、その夜仕事の帰り道に何故か河野様にお会いしてしまったのだ。
職場で賄いのご飯が出るのであまり家事のための買い物はしないのだが、朝用の牛乳を切らしていたのでコンビニに寄ることにしたのだ。
まさかそんなところで会うことになるとは思わなかった。
「あっ…」
見覚えのある姿を雑誌棚のところで見つけて小さく声をあげると、彼が振り返った。料亭で会ったときと違って、彼は家に戻ってから出てきたのか私服に着替えていた。
「楠木さん」
こちらに気がつくと彼はぱっと笑顔になった。
「こんばんは、というか数時間ぶりか。今仕事帰り?」
「はぁ、そうですが…。河野様はお家はここらへんでしたか」
「うん、まぁ。楠木さんは私服だと印象が変わるんだね、一瞬分からなかった」
それはそうだ。仕事着の着物に奇麗に纏めたお団子頭と、普通のシャツにジーンズで髪の毛を降ろしている姿は顔が一緒でもまったく違うだろう。
「河野様は私服でも…」
そこまで言って言葉に詰まる。相変わらず格好良いですね、と言いかけたのだけど、そんな風にあからさまにお客様には言えないと思い返して。
「その、洗練されていらっしゃいますね」
少し考えた末に出てきた言葉がそんなので河野様は苦笑された。
「ところで、楠木さんはもう勤務時間外かな」
「はぁ、そうですが」
「だったら今晩渡し損ねたプレゼント、受け取ってもらえるよね?」
「え、あの」
突然そう言われて戸惑う。
確かに今ならば個人的に受け取れるかもしれないが、それでも遠慮できるものならしたい。いつどこに人の目があるか分からないし、お客様と個人的に仲良くなるのは避けるべしというのが店の教えだからだ。
「僕の家、近くなんだよ。取ってくるから、ね」
「河野さま!」
「ちょっと待ってて。すぐ戻るから」
そういい置いてかれは去って行ってしまった。なんて逃げ足の早い。
あまり経験のない私でも分かった。断られる前に逃げたのだ。そうしたら私が待っていることを見越して。
優秀な営業マンだけあって強引だが賢い。
仕方ない、と思い直して買い物を先に済ませることにした。

河野様はすぐに戻ってきた。本当に近くに住んでいるらしい。
コンビニの前で待っていた私の姿を見つけた彼はほっと頬を緩めた。
「これ、楠木さんに似合うと思って。京都に出張だったんですけど、露天で見かけて」
そう言って差し出されたのは奇麗に包まれた簪(かんざし)だった。鼈甲色のベースに花がモチーフの飾りがついている。とても繊細に作られていて、一目で露天で買うようなものではないと思った。
芸妓さんが前指しに使っても見劣りしないくらい奇麗だが、普通の服装にはまず合わない。
「ありがとうございます」
使い道があるかどうかは分からなかったが、とりあえず喜んでおこうとお礼を言った。
きっと仕事場で着物を着るから選んでくれたのだろう。実際には自分は社員用に支給された着物以外には浴衣すら持っていない。
着物はアンサンブルでも自分には高すぎるし、浴衣は今まで来ていく機会もなかったから買わなかった。
料亭の先輩達はよく着物のおさげを年配の方達から頂いていたり、お茶やお花を習いに行くときように色々買うみたいだが自分にはお手入れが大変なように思えたし、先輩に必要なときに貸して頂ける着物だけで十分に思えた。
だから、本当はこんな簪を頂いてもめったに使い道はなかったのだけれど。
「嬉しいです。とても、奇麗」
白い包み紙の中艶やかに光る簪にほうっとため息をついた。
「喜んでもらえて良かった」
にこにこと微笑む河野様もそう言って、私の手元から簪を抜き取った。
顔をあげた私の後ろに両手を回し、髪の毛をさらりと手櫛でとかれた。
まるで抱きしめられるかのような仕草に身硬くした私をよそに、彼は器用に指先でといた髪の毛をくるりと束ねてねじり、そこに簪を滑らした。
「うん、やっぱり、似合う」
身を離した彼は頭上から私の頭に留められた簪を褒める。
それはすぐにするりと解けてしまって、私が慌てて地面に落ちそうになった簪を受け止めた。同じように受け止めようとしたらしい河野様の手が私の手ごとそれを包み込んだ。
「あ」
「はは、落ちてしまったね」
彼はそうやって何事もなかったように笑うけれど、私の内心はどきどきと脈打つ鼓動がうるさくて、顔が熱く感じられるくらい緊張していた。
河野様は私の手を握ったままそれを身体の前でそっと開いた。でも私の手の下に彼の掌はまだ残っていた。
「河野様…?」
彼を見上げたとき、目が合う。
スローモーションのように彼の顔が降りてくるのが見えた。
どうしてか避けることが頭に思い浮かばず放心したように立ち尽くしていると、唇に柔らかい感触がした。
それは軽い感触を残したまますぐに離れた。
でも河野様の顔はまだ眼前にあった。
もう一度見つめあって、自分でも知らず彼を誘うように薄く唇を開く。
すると今度は長く、深く口付けられた。
初めてではなかったけれど、慣れているわけでもない。お子様のような体験しかしたことがなくて。
こんな大人のキスは知らなかった。
何度か啄まれて、目を開けると河野様は微笑んでいた。優しい笑顔だった。
「まつり、って呼んでも良いかな?」
「…はい」
そう聞かれて熱に浮かされたままの私が頷くと、また優しく口づけられた。

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