Tuesday, July 21, 2009

貴方と私の境界線01

この人と付きあっていられるのはそう長くない。
だってこの人は私の手に余るようなすごい人だから。


大手企業で営業をしているらしい彼は、よくうちの店に来ていた。
高級老舗で有名なうちの懐石料理屋は界隈の社会人に接待場所として人気で、彼もそんなビジネスマンの中の一人だ。

私の両親は早いうちに離婚していて、母は家を出たあと連絡は取っておらず、残った父はアルコール中毒で中学生の時に死んだ。親戚が面倒を見てくれたけれど高校に行くほどお金がある家じゃなかったので迷惑をかけたくなくて、それに奨学金を受けるほどの頭もなかったので中卒のまま、いくつかのアルバイトを点々とした。
その後、たまたま雑誌に乗っていた今の店のアルバイト募集の広告を見て、運良く採用してもらえたのだった。
初めてこの店に来てから早4年。私は21歳になり、店でも頑張りが認められて今年から正社員として雇用されることになった。
アルバイトと正社員の違いは、制服として着る着物の柄もだけど、役割も変わってくる。お客様を一部屋分担当することになるのだ。旅館の中居と同じ役割だ。

「河野様、おひさしぶりでございますね」
料亭はなむらの敷地は広い。表の普通客を迎える建物は全部の一角だけで、その後ろにある個室用のお座敷がある建物は、日本庭園に囲まれた昔の屋敷を改装したものだ。
板敷きが軽くきしみを上げる廊下を先導しながら、三歩ほど後ろを歩く彼にそう言うと、彼は苦笑して頷いた。
「一週間ほど休暇を取っていてね。従兄弟が海外挙式なんてあげるものだから、ついでにと思って」
「それはようございましたね。お仕事の骨休めにもなられたでしょう」
河野様という方は、うちの料亭でもかなり頻繁に利用して下さるお客様だった。大手企業の営業をしていらっしゃるというのは、つい最近頂いた名刺から知った。
「そうだね。仕事以外で海外に行くなんて久しぶりだったよ」
目的地のお座敷につき、床に膝をつきすっと襖をあける。彼が中に入ってから、後ろから着いてきていたお手伝いの子のお盆を受け取り、自分も部屋に入って襖を閉めた。
彼は慣れた様子でいつものお席に座る。
お盆の中から暖かいおしぼりを取り彼に手渡す。それからお茶を彼の前に置いた。
手を拭いた彼が使い終わったものおしぼりを返してきたのを受け取ろうとすると、ついと手を握られた。
「まつり」
「か、河野様」
馴れ馴れしく名を呼ばれる。慌てて狼狽える彼女に彼はふっと笑って声を潜める。
「お土産があるんだ」
「困ります、仕事中は」
同じように声を潜めて彼女も返した。
薄い襖で区切られた向こうに誰がいるともしれない。接待や会合に来られるお客様のために普通の日本屋敷よりは防音してあるけれど、それでも壁は薄いのだ。
「今日の仕事が上がったら、僕の家に来てくれるかな」
「…分かりました」
仕方なく頷く私に彼はくすくすと笑う。ため息をついて彼に掴まれた手を抜くと、彼は名残惜しそうに指先を撫でて手を離した。
それから意識を切り替えて、お盆を持って部屋を出た。

河野様、ならぬ河野信夫さんとお付き合いするようになってから、もう1ヶ月ほど経ったけれど、未だに彼と触れ合うのには慣れない。
嫌というわけではないけれど、緊張してしまう。男の人と付き合うのが初めてなワケでもないのに。ただ怖い。
彼という人は、底なし沼のようだ。
惹き付けられてしまえば最後、心を許してしまえば最後、後は堕ちる一方になりそうなほど、魅力的な人。ホストに入れ込んだりストーカーになるまで誰かを好きになるなんてどこか遠くの出来事のように感じていたのに、河野様という人を見ているとまるで自分もその泥沼に足を踏み入れそうな気がしてならない。
だから私は心を凍す。入れ込みすぎないように。理性が効くように。
後戻りできなくなる前のぎりぎりのところで、この人とのお付き合いを続けなければいけない。そうすればきっと、別れの時が来ても大丈夫だから。

「楠木さん、河野様のお連れ様がお着きになられました」
「今参ります」
接待先の方がお着きになったので急いで玄関に向かった。
今日のお客様は某商社の上役の方らしい。河野さんと何回かお見えになったことがあったので、自分とも一応は顔見知りであった。
「いらっしゃいませ、田川様。河野様はお部屋でお待ちでございます。どうぞお上がり下さいませ」
屋敷は土足厳禁なので玄関で靴を脱いでもらうことになっている。そのときスーツ姿でもビール腹が目立つ壮年の田川様の後ろに、二人ほど控えているのに気がついた。
「いらっしゃいませ、こちら段差がありますのでお足下にお気をつけ下さいませ」
営業用の笑顔で対応しながらも、失礼にならないよう伏し目ながらに靴を脱ぐ二人を観察する。
一人は田川様の下で働いている吉川、いや吉田様、だっただろうか。田川様と一回りほど違っているけれど、すごく期待されているらしく田川様がよく話題にお出しになられる。一度田川様が連れてこられたことがあって、河野さんと同じくらいの年の人だったのでなんとなく覚えていた。
その横におられる方は、女性だった。
とても美人。
すらりとして、自信がにじみ出るようなプロポーションと堂々とした態度。頭も良さそうだった。河野さんと並ぶと、とても似合いそうな人だと、すぐにそう思った。

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