Tuesday, February 17, 2009

片恋番外

「—………ごめん、俺、好きな奴いるから」
 目の前の女の子に申し訳ないと思いながらも、きっぱりと告げる。
 彼女は気丈に笑顔を保ちながら頷いて、足早にさっていった。
 はぁ、とため息が漏れる。
 見上げた空は、今にも雨が降り出しそうなくらい曇っている。まるで自分の心模様のようで、余計に陰鬱とした気分にさせる。
 どうして人の気持ちとはこうも上手くいかないんだろうか。そう思いながら、自分も教室に戻るために、校舎裏から踵を返した。

 教室から荷物を取ってきて下駄箱へ向かったとき、見覚えのある姿が隣の列から出てくるのを見つけて声をかけた。
「吉原」
 くるり、とこちらを向いた彼女の長い黒髪がふわりとなびく。
「樋川じゃない」
「今帰りか?」
「うん、なんか雨振りそうでしょ。図書館に居たんだけど傘持ってきてなくって」
 困ったように笑う彼女に胸が高鳴るのを隠しつつ、一緒に帰ろうと誘った。


 なんとなくじっとりとした空気が雨の前触れを感じさせる。冷たい風が頬を撫でる。湿度のせいで余計に寒く感じる気がした。
 いつ降り出してもおかしくない空に吉原は心配なのか何度も見上げている。その横顔を、形の良い頬を目で追いながら話しかけた。
「久しぶりだな。高校に入ってから、あんま接点ないし」
「そうだっけ?」
 そうなのだ。クラスは離れてしまったし、中学に比べるとクラス数が多いせいか余計に遠く感じる。そんなことで寂しく思っているのは自分だけだろうけど。
「元気にしてた?」
「まぁまぁ。そっちは?」
「まぁまぁだね」
 ふふ、と笑って彼女はそう答えた。
 高校に入って皆髪の毛を染めたり、化粧をしたりしているけれど、吉原はあんまり中学の頃から変わっていなくて、どこか幼い感じがする。それとも、同じ高校に来た他の中学の奴らが大人びているだけなのだろうか。
 見習って自分もそれなりに見た目に気を使っているし、池谷も髪の色が薄くなった。瀬名は化粧が濃くなって、少しケバい感じになってしまった。美人は美人なのだが個人的には元の方が可愛いと思うのだけど。池谷は気にしていないし瀬名の周りも皆そういうタイプの女子が集まっているので仕方ないのかとも思う。
「お前、好きなやつできた?」
「どうして?」
 唐突に聞いてしまったせいか、吉原はきょとんと首を傾げる。
「なんとなく」
「なにそれ」
 池谷のことは諦めたのか、と聞けなくてそういう聞き方をしただけに、理由は言えず、彼女は憮然とした俺を見てぷっと笑い出す。
「樋川こそ、モテモテなくせに、彼女いないの?」
「いねーよ。つか、モテモテとかなんだよ。モテてねーよ」
 なんとなく気恥ずかしくて悪態をつく。すると吉原は人の悪い笑みを浮かべた。
「うそばっかり、今日放課後呼び出されたんでしょ」
「な、なんで知ってんだよ」
「木下さん、可愛くて有名だもの」
 今日、告白してきた子の名前まで知っていたのかと愕然とする。どちらかというと知られたくなかった。勿論、女の子も振られたことなんて皆に知られたくないだろうし、振った手前彼女に恥をかかせたくはない。
 大体、可愛くて有名なのはお前じゃないか、と心の中でぼやく。
 中3の頃までは肩で揃えていた髪を、今では背中にかかるくらいまで伸ばして。陸上部も止めてしまったせいか、色も白くなってきて、男子の中では清楚で可愛いと人気なのだ。性格の良さは中学の頃からだし、いつ吉原が告白されるのかとハラハラしているこちらの思いも察して欲しい。勿論、本当に察されると困るのだが。
「それで、付き合うの?」
「付き合わねーよ、俺、好きな奴いるもん」
 言ってしまってから、はっとする。慌てて撤回しようとしたが、別に誰を好きだといったけでもないし、慌てる方が変かと思い直して、隣を歩く彼女をちらりと見る。そこで、こちらを見上げる黒目と目が合い、一瞬どきりとする。
 吉原は柔らかく笑った。
「樋川、好きな人いたんだ」
 その言葉に、多少傷つくがわざと「なんだよ、居たら悪いか」と悪態をついて誤摩化した。
 別にこれくらい、どうってことない。池谷のことを好きな吉原をずっと見ていた中学3年だったのだから。
「お、お前はどうなんだよ。池谷のことは諦めたのかよ?」
「ん?うーん、そうだねぇ、どうかな」
 誤摩化すつもりなのか、吉原は言葉を濁した。
 その時、雨が一雫ぽつりと降ってきた。
 ぽつ、ぽつ。
 それからぱらぱらと、だんだん強く降り出してきて、俺は急いで吉原の腕を掴むと駅に急いだ。



 駅のホームで電車を待っている間も、電車に揺られている間も、なんとなく二人の間に口数が少なくなった。最後に聞いた質問のせいなのか、と俺は内心焦った。もしかして、気を悪くさせてしまったのかも、と。
 雨は強くなる一方らしく、自分たちの最寄り駅で降りた時には外は土砂降り。さすがに歩いて帰るには教科書を濡らさずにいられないようで、二人して顔を見合わせた。
「傘買ってかえるか?」
「ううん、勿体ないから親に迎えに来てもらう。車で来るから樋川も乗っていきなよ」
「いいのか?」
「うん、もう連絡してあるから」
 その代わり、あと20分くらいかかるらしいけど、と彼女は申し訳なさそうに言った。濡れないで帰れるのなら願ってもない、とその案に乗る。勿論、もっと吉原と一緒に居たかったし、吉原の親に会ってみたかったからだけど。


 ざぁざぁと降り続く雨を見つめながらぼうっとしていると、ぽつりと吉原が言った。
「樋川は、どうしてその子のことが好きなの?」
「え、なんだよ、突然に」
 焦る俺を見て吉原は笑う。
「樋川、木下さんを振っちゃうくらい、その子のこと、すごい好きなんだよね」
「当たり前だろ」
「好きな人がいるのに、他の人と付き合うのっておかしいよね?」
「は?」
 どういうことだ、と彼女を見るといつのまにか笑みは消えていて、表情の読めない横顔は雨を見ていた。
「このあいだね、告白されたの。断ったんだけど、諦められないって、お試しでいいから付き合ってくれって」
「え、マジかよ」
 誰だ、俺の吉原に告ったやつは。
「おかしいよね、好きな人がいたら、他の人となんて付き合えないよね」
「お前、なんて返事したんだよ」
「無理だって言ったよ。ちゃんと断ったら、一応納得してくれた」
 もう少しで告白した相手の名前を聞いて殴りに行こうかと思ったところで、その答えを聞いてほっと気持ちを落ち着けた。
「でもね、私、思ったの。あぁ、この人も一緒なんだなって」
 その吉原の言葉に、ぎくりとする。
「私の池谷を好きな気持ちはきっと報われないけど、この人の想いは、私が頷くだけで報われるんだって。私が感じる苦しい想いをこの人も同じように感じてるんだって」
「だ、だからって付き合うのは、問題外だからな。お前には相手に気持ちがないんだから、付き合ったって相手は結局報われねーじゃん」
「そうだよね。でも、お試しって言われたとき、本当は少しだけ心が傾いたの。私、一体いつまでこんな想いを引きずるんだろうって」
 吉原は、はぁと息を吐いた。その息が白く曇って消える。
「池谷が好き。でも奈津子のことも好き。二人とも大切な友達だと思ってるし、お似合いで幸せそうだから、いつまでも一緒に居て欲しい。でも、きっと私、いつも待っているんだと思うの。奈津子が他の人を好きになったり、池谷が何らかの理由で奈津子と別れるのを」

 ぴちゃん、と足下で水が跳ねる。
 その音でずっと自分が息を止めていたのに気づいた。
 吉原は相変わらずどこを向いているのか分からない目で外を眺めている。
 何かを言おうとしたけど、何と言えば良いのか分からなくなって口を閉じた。
 冷水と熱湯を一気に浴びたような感覚で目眩がしそうだった。
 今の言い方だと吉原は池谷のことを諦めようとしているのかもしれない。チャンスじゃないか。何と言えば良い?何と言えば、吉原が池谷を諦めるだろう。俺を向いてくれるようになるのだろう。
 でも。
 でも、彼女は同時に池谷を諦めることの難しさを噛み締めているのだ。
 3年近く池谷のことを好きだった吉原。その想いがどれだけ強くて重いものなのか、ずっと見てきた自分には分かる。
 意地悪な思いで別れれば良いと思っているわけじゃない。ただ、もしも、何分の一かの確立で池谷と瀬名が別れたら。そしてやっと自分の方を振り向いてくれる日が来たら。そう考えずにはいられないのだ。
 俺は?俺は、いつか吉原が池谷を見つめるのを諦める日を見ている。いつか俺の方を向いてくれる日をずっと夢見ている。
 今日、木下という子に告白されたときも、俺の想いは揺らがなかった。
 吉原は相手の男に何と言われたんだろう。あんなに池谷だけを見ていた彼女が不安に思うほどの言葉をかけたのだろうか。
 指先をぎゅっと握りしめる。
「俺は……」
 口を開けば掠れた声が出た。
 情けないけど一度んんっと咳払いしてから、気を取り直して続きを言う。
「俺は、吉原はそのままで居れば良いと思う」
 吉原は、え、と顔を上げてこちらを見た。
「気持ちは変わるかもしれない。もしかしたら池谷と瀬名は別れるかもしれない。その前に吉原に他に好きな人ができるかもしれない」
「そんなこと…」
 あるわけない、と言いかけたのだろうか。吉原は、でも戸惑ったように、指先を唇にあてて考え込むように黙った。
「きっと、その時が来ないと分からない。吉原にも、誰にも。でも、俺は、お前は無理に自分を変えなくて良いと思う。諦めようとしたり、好きでもないのに他のやつと付き合ったり、そんなことしなくていいと思う」
 吉原が昔、池谷と瀬名のことを想った気持ちが今になって分かる。
 結局俺と吉原は同じところを歩いているのだ。好きで、好きで、たまらなく好きなくせに、結局相手が幸せでいてくれることを祈ってしまう。
「俺が付き合ってやる。お前の片想いに。お前が、納得できるまで、さ」
 これが、人を好きになるという気持ちなのだろうか。切なくて、苦しい。でも、暖かくて、優しい。傷つけたくない、傷ついて欲しくない。笑っていて欲しい。
「きっとさ、いつかお前が気づくよ。お前のことを想ってくれる、俺みたいに良い男がいることにさ。そしたら、池谷よりも、そいつのこと好きになれるよ」
 それは俺かもしれない。違う男かもしれない。でも俺であれば良い。吉原が最後に選ぶ男が俺であれば良いと、心の底から願っている。
 吉原は、しばらくぽかんとしていた後、頬を赤くして照れたみたいに笑った。
「樋川みたいに良い男って、何それ。確かに樋川は良い男だけどさ」
 その笑みはいつかとは違って、本当に俺を見て笑ったんだなと思うと、馬鹿みたいに嬉しくなった。


 
 好きだ。
 
 好きだ。
 

 俺は吉原が好きだ。

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