Thursday, August 13, 2009

貴方と私の境界線08

「…やっぱり。無理です」
ぽつり、とそんな言葉が飛び出した。
無理。無理だ。何回考えても無理すぎる。
「何が?」
「河野様とお付き合いするのは無理です。辛いです」
両手で顔を覆ってその言葉だけ搾り出すように言った。
河野様の顔は見れなかった。見たくなかった。 本当は彼のことが好きだ。
好きで好きで堪らないから、いつも彼といると緊張して失敗しないように気を使いすぎて疲れてしまう。
こんな風に本当に些細な言い合い、喧嘩ですらない小さな事なのに、お別れの言葉を言うのは卑怯だ。自分でも分かってるのに。
でももう本当に疲れた。
この人と付き合っていられるのは長くない。いつどんなことでがっかりされるのか。もしも学歴がないことや育ちが悪いことがバレたら。
会うたびに好きになっていく。
それとともに不安も大きくなる。 いつ別れの時が来るのだろう、とそんなことばかりが頭に浮かぶ。
自分ももうそろそろ結婚して子供だっていてもおかしくない歳なのに、河野様と一緒の未来なんて想像すらできない。
「ごめんなさい、ごめんなさ…っ」
謝って許されることじゃないけれど、そう謝罪の言葉を口にしていると、顔を覆っていた手を突然強い
力でつかまれた。
驚いて顔をあげると河野様の顔が思わぬほど近くにある。
いつもは優しげでおっとりした雰囲気を纏っているのに、今は見たこともないくらい冷たい目をしていた。そんな顔で睨まれると蛇の前の蛙のように固まってしまう。
「駄目だよ、別れるなんて」
「あ…」
立ち尽くす私を腕の中に抱きこみながら、彼が耳元で囁いた。
「他の男のところへなんて行かせないから」
その言葉を引き金に後ろにあったソファに押し倒された。
「河野様っ」
「大丈夫、優しくするから。まつりが別れたいって言ったこと忘れるくらい、うんと優しくしてあげるから」
言葉通りに羽のように軽い口付けを額から頬に、唇に、そして首筋を辿るように落とされる。 まるで壊れ物を扱うように彼の指が身体を這う。
「っ…」
彼の舌が首筋をくすぐるように撫でると、ぞくぞくっと背中が弓なりにしなった。気持ち良い。
数えるほどしかない男性経験の中でも河野様が格別に上手なのは分かっている。
彼に触られると不安も吹き飛んでしまうくらい、頭が変になってしまうくらい感じてしまう。
いつの間にか抵抗するのも止めて身をゆだねていると、彼は満足気に私を見つめた。

明け方、目が覚めた。
隣では河野様が穏やかな顔で眠っている。
昨晩私を屈服させるのを目的の行為を何回もしたせいで体力を使ったのか、疲れているようでぐっすり寝ているようだ。
私も体が鉛のように重かったが、頭の中に一つの考えが浮かんで消えず、そのおかげで浅い眠りにしかつけなかったようだった。
静かな寝息を立てる彼の端整な顔をしばらく見つめた後、ベッドから抜け出してリビングの床に落ちていた服を拾い集めて身に着けた。
なるべく音を立てずに彼のマンションの部屋から抜け出すと、早朝の肌寒い空気の中を一目散に自分のアパートに向けて走った。
部屋に入ると真っ先にシャワーを浴びる。
身体に纏わりつくような彼の感触を振り切るようにボディソープで洗い、シャワーを終えた後は着替えながら何着かの服を旅行用鞄に詰めた。
銀行の通帳も忘れず詰めてから、急いでアパートを出る。
そのまま一直線に料亭に向かった。 土曜の朝はあまり人が多くない。
それは料亭内も同じで、調理場の人が仕入れのために数人いるだけだった。
「おはようございます」
門は鍵が閉まっているので入れてもらうと、顔見知りの壮年の板長が怪訝な顔をした。
「どうしたんだい、その荷物?」
「あ、その、ちょっと友達の所にお泊りに行くんです」
旅行鞄を持って来た理由を適当に作って社員用の更衣室に行く。自分用のロッカーに荷物を仕舞うと、財布と携帯電話だけ持ってまた外へ出た。
喫茶店でモーニングのセットを頼んでから、マナーモードにしていた携帯電話に目をやる。
まだ誰からもメールも電話も来ていない。 もうそろそろ河野様が起きる頃だと思ったのだけど。
そこまで思って、彼が勝手に帰った自分のことを怒るか心配するかして連絡を寄越すことを期待していたのを思い知る。
軽く頭を振って気を取り直すとこれからのことを考えて、恵さんに電話をかけた。

料亭の近くで一人暮らしをしている彼女は、もう起きていたらしく朝早くに電話をかけたことを面倒がりもせずにすぐに喫茶店までやって来てくれた。
「泊まるところがいるの?」
同じようにモーニングのセットを頼んだ彼女は、理由も言わずにただ泊めてくれないかと頼んだ私に聞きなおした。
「すみません、ご迷惑だとは分かっているんですけど」
「どうしたの?アパート追い出されちゃった?」
「いえ、本当に諸事情で」
追い出されてはいないけど、今のアパートは解約するつもりだった。
お金はかかるけれど仕方がない。 そうでもしなければあの人を忘れられそうもなかった。
料亭からの帰り道を歩くだけできっと河野様と歩いた思い出が浮かぶに違いない。
そんな思いを振り切るためにも今のところを引っ越したかった。
それにきっと音信普通になれば河野様はアパートの部屋までやってくるだろう。
ドア一枚隔たれただけだったらきっと誘惑に負けて開けてしまう。
もしくは彼の得意の話術で簡単にドアを開けるようにコントロールされてしまうのだ。
「お願いします、他に頼れる人が居ないんです」
「あぁ、そういえばまつりはご両親が…。そうね、分かった。私のマンションはワンルームだから狭くて無理だけど、実家の部屋を貸してあげるわ。そっちなら何日居ようと大丈夫だし」
「え」
恵さんの実家と言うと、料亭の裏にある新しい和風建築のお屋敷ではないのか。
つまるところ料亭の社長の家ということだ。もちろん社長もおかみと呼ばれている恵さんの両親も住んでいるわけで。
「だっ、駄目です。駄目です。恐れ多すぎます。無理です」
「大丈夫よ。うちの両親はまつりのこと気に入ってるし。なんなら家の掃除でも手伝ってあげたら喜んで居候させてくれるわよ」
「め、めぐみさぁん」
無理だと首を振ったのに、彼女はすぐに乗り気になって、食べ終わったらすぐに実家に行こうと言った。

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